「時の迷い子が帰ってくる。いつか忘れ去られた歴史の揺り籠に抱かれた迷い子が」

「——血と想いで綴られた不文律を手にして」

「狂喜にさいなまれるほど恋焦がれて止まなかった〈調律師〉が」


道化師の舞台は悲劇から喜劇へ、喜劇から悲劇へと遡る。

「さて、時の定めに弄ばれる少年と少女の運命やいかに……っ! こうご期待あれ!」
「それで? さっきからやっているそれは、なんだ」
「ああ、これですか? 人形劇ですよ。世知辛い今の世の中、片手間に稼ぎをしないと食い扶持に苦労するものですから副業として営んでいるんです。何か不快な点でもございましたか?」
「ああ、大いに不快だ。貴様の言動は頭のてっぺんから爪の先まで不愉快だ」
「不愉快ですか。……ふむ、わたくしは物語を愉快な喜劇に変えて演出しているだけなのですが」
「愉快な喜劇の時点で気に入らないと言っている」
「では、ここは悲劇のまま終幕といたしましょう——っと、どうやら失われた世界の破片が埋まったようですな」
「戻って来たか。彼が」
「ええ、お待ちかねの〈調律師〉が。〈蒼の終点〉と言った方がふさわしいかもしれませんが」
「高い餌をばら撒いた甲斐があるというものだ。成果を上げてくれたのはアシェルたち〈ゼノン解放戦線〉だったか。報酬をたらふくやらねばならんな」
「おや、太っ腹ですね」
「対価を考えたら、金貨千袋でも足らないだろう?」
「金に換えられないものですからね。して、この後は?」
「ふん、今までさぼっていた分、奴を精々こき使わせてもらおう。〈対生成〉をこれ以上引き起こさないためにも、な」
「ですが、そうも言っていられないようですよ?」
「どういう意味だ」
「時期尚早といいましょうか。こちらへの来訪者、いや帰還者は一人だけではないのですよ」
「……まさか〈代替世界〉の人間が誰か巻き込まれたというのか」
「それこそ“まさか”。まぁ〈代替世界〉に住んでいた人物であることには違いないですがね。帰還者とも来訪者とも言い難いんですよ」
「前置きはいい。何が“来た”?」
「どうやら、〈不協和音〉、がくっついてきちゃったようですねぇ」
「な——」

欠けたはずの世界のピースが埋まるように、錠の落ちる音がした。

「……だから、まだ早い(・・)と言ったのに」
それでも凍りついた涙のように、雪は止まない。
まるで、亡くした全てを繋ぎ止めるかのように。しんしんと。深々と。



「な……んなんだ……よ、ここは……。俺は、なんで……」

世界が完結する。過去と未来はもう交わらない。現在は終わってしまった。

沈黙の賢者は憂う。愚者の歴史を、彼らの血で綴りながら。

「……やはり、最終措置なしでは成り立たぬということかのう。なぁ、エミリア・ブラーナ」

「ここは……ここはどこなんだ……?」

彷徨う彼のものに応える声は何処にも無い。無い、亡い、ない。

そこは、葬られた棺のゆりかご。〈現〉と〈虚〉の間——〈零〉
夢に見ることもなければ、思い出すことも出来ない。曖昧で不確かな場所。
「すみません。サラ」
「おぬしに非があるわけじゃなかろうて。ただ、無茶をしたからには相応の報いは覚悟せねばならんのう」
「はい。〈対消滅〉が完了しなかった以上、荒れるのは必須でしょう」
「……嫌な思いをさせるのう。しかし、それより問題は、あの小童じゃ。出来ると思うか」
「出来ないでしょう。ただ——」
「ただ?」
「クリスティーヌがさせる(・・・)でしょう」
「それで、おぬしの愛弟子が愛情不信にならなければよいのう」
「愛弟子かどうかの議論はさておき、既に手遅れだと思います」
「して、その理由は?」
義兄(アレクセイ)はともかく、義姉(カタリーナ)の集中砲火のような愛情がどうも明後日の方向を向いていまして」
「ふむ、つまりはおぬしとよく似ていると」
「どうしてそうなるんですか」
「まぁ、冗談はさておき。〈既存世界〉のエーテル循環に限界があったのは事実じゃ。ヘス機関こと創造の大樹はそもそも干渉権限を持つ者が複数いることを前提として“機能”しておる」
「補助機能も最終措置も、〈特異点〉ないし〈干渉者〉がいなければ意味を成しませんからね。比較的人数の多い第一、第二世界はともかくとして、第三世界への干渉者は絶対数が少ない。最大の干渉者である〈蒼の終点〉が〈代替世界〉にいってしまっては〈既存世界〉の循環が滞るのは必然です。ブレイク・バーストに近いドライブ・シフトが立て続けに起こってしまう」
「誘発する目的もかねているんじゃろう。まだ〈水の交差点〉は確定しておらんし。〈白の始点〉は、ほぼ確定したようじゃが」
「しかし、それでは一歩間違えば〈対生成〉がまた発生するのでは?」
「エミリア・ブラーナとて、そう簡単に〈対生成〉を許すわけじゃあるまいて。しかし、こちら側にはクリスティーヌがいるからのう。この一手でどちらに天秤の針が傾くか……」
「サラ、どちらへ?」
「このままでは、こちらもこちらとて無事ではすまん。これ以上の滞りは防げるじゃろうが、問題は〈質量欠損〉じゃ」
「……まさか」
「そのまさか、じゃ」
「——〈初期化(リプログラミング)〉」


過去と未来を代償に、帰る居場所を失った“迷い子”は“其処”から“此処”への断絶を知る。

「はじめまして、シエル・フォルクロア?」
「はじ……め、まして……?」
「そんな裏切られたような顔をしないで欲しいなぁ。もっと手ひどく裏切りたくなるじゃないか」
「エリック兄さん、戯れはほどほどに。三度目の正直というやつなんですから」
「四度目の間違いだよ。ようやく見つけた」
「カタリーナ……アレクセイ……?」
「残念ですが、わたしはカタリーナという名前ではありません」
「カタリーナ……じゃ、ない? ならどうして姿かたち瓜二つなんだよ!」
「初めまして、懐かしき見知らぬ友よ——いや、ここは〈調律師〉あるいは〈対生成〉者と呼んだ方が適切かな?」
「……ちょう、りつ…し……? なんだよ、何…言ってんだよアレク兄」
「エレアノーラと同じことを繰り返すようで悪いけれど、僕はアレクセイじゃなくて“エリック”だよ」
「それならなんで、どうして……アレク兄とおんなじ顔をしてるんだよ!」

知っている場所で、知っている人と、知らない出会いをした。

「……どうやら、おっぱじめたようだな。〈代替世界〉と〈既存世界〉の交差点が予測とずれたのは、ちとばかし誤算だったが、結果オーライだろ」
「そうしてる間に肝心の彼をお持ち帰りされたらどうするの?」
「その前に、トンビになって油揚げはかっさらうさ」
「ユーリーは漁夫の利がお得意だなぁ」
「それに——」

「こちら聖都サン・オラシオン跡地! 協定十二条の項目一に基づき〈封印漏れ〉を捕縛に際して部隊を緊急要請! 繰り返す——」

「〈封印漏れ〉相手だ。精々互いにつぶし合って体力削り合ってもらうさ」
「……うわ、悪党だ。悪党がここにいる」

兵士たちの雄々しい声を引き金に、獰猛な戦が始まる。

「緊急配備! 容赦はいらん! 奴を何が何でも取り押さえろ!」
「C班、F班負傷者多数! 軽傷なものは、負傷者を連れて戦線から離脱せよ!」
「こちらY班! 対象はホセの旧家に潜伏中。包囲が完了次第突入す——うわぁぁぁぁぁぁっ!」
「どうしたY班! 応答せよ!」
「……ふむ、早々やらかしてくれたようだな」
「ふふっ、だってエルスですもの」
「楽しそうだな。〈不協和音〉。あるいは〈対消滅〉を逃れたのがそんなにうれしいか」
「ミハエル。八つ当たりとは見苦しいぞ」
「ですが父上……!」
「控えろと言っておる。奴を捕える好機が自ら転がり込んできたのだ」
「そうですよ。不快にさせて逃げられでもしたら後々大変になりますからねぇ」
「黙っていろ道化。貴様の発言を許可した覚えはない」
「私は何があっても逃げないから大丈夫よ」
「何?」
「私はもうどこにも逃げないから。あなたたちからも、エルスからも、何より私からも」
「君は……。いや、なんでもない。こちらこそ失礼した。先の発言を詫びさせてもらいたい」
「……ありがとう。優しいのね」
「おや? 案外、素直ですねぇ。……もしかして、もしかしちゃったりします?」
「さっきも言ったが、貴様の発言は一言たりとも許可した覚えはない」
「……さて、そろそろ本題に入りたいのだがな」
「も、申し訳ありません……」
「そんなに急くことはないわ。いずれ、彼は私の前に現れるのだから」
「それは、予測か?」
「いいえ、歴史よ」
「ほう……? なるほど。聖女とはよく言ったものだ」
「そんなことないわ。私はただの娘よ。笑って、泣いて、怒ったりもする。好き嫌いもあれば身勝手でもある普通のどこにでもいるただの小娘よ」

昨日も今日も明日もなく、ただ生き延びる〈既存世界〉。
何も恐れるものなどないと、虚勢を張り続け、まるで何かに怯えるように不安定な〈既存世界〉。

「……あー、しくった。ばかやった」
「あはは、ユーリーの馬鹿は先天的の疾患だからしょうがないね」
「お前そこまで言っちゃう? 言っちゃうの?」
「もちろん、それ以上にユーリーのかっこいいところもいっぱい知ってるけど」
「はいはい、そらどーも。ったく、落として上げるとかどういうテクだよ」
「そう?」
「っていうか、あのなぁ、あれはどう考えても俺のせいじゃねえだろ?」
「そうかなぁ」
「例え話だ。食虫植物のど真ん中にいるのに食われてない虫がいたらお前どう思う?」
「うーん、なんか理由でもあるのかなーとか思う?」
「もしくはその虫が、食虫植物の共犯者で他の虫をおびき寄せるためにそこにいるとかな」
「えーと、つまりそれって?」
「同じものの中に何か一つだけ別のものが混じってるってのは異質なんだ。普通ならそこに違和感なり警戒心なり抱くもんなんだよ。それが周囲にあるものと極端にかけ離れたものであればなおさらな」
「そうだねぇ」
「それを無視して敵陣のど真ん中で無傷でいやがるガキを真っ直ぐ助けに行くたぁ、どういうお人よしだ!?」
「ユーリーだって逆の立場だったら絶対あの子供助けに行くくせに、自分のことは棚にあげるよね」
「畜生。あいつらが、シエルを弱らせたところで、真打登場ってな感じで上手にかっさらう予定が……」
「やっぱり私の言うとおり強硬突破しておけばよかったんだよ」
「あのな、〈封印漏れ〉で〈蒼の終点〉だぞ? そうスマートにことがうまく運ぶかっつぅの」
「今こそユーリーの精神年齢の低さと子供と同レベルの口喧嘩ができる才能を活かす機会じゃない。その特殊スキル使って、いつも通り子供に強烈な精神依存を引き起こさせて中毒にさせればいいんだよ」
「お前その大いに誤解を招く発言はやめてくんね!?」
「え、先輩がそう言えって言ってたんだけど」
「エリックの発言は間に受けないでくれ。ったく、あのクソ兄貴は」
「あれ?  クソ兄貴って呼ぶってことはエレアノーラちゃんとまだ付き合ってるの?」
「付き合ってねぇよ。そういう意味じゃねぇよ。エレアノーラはともかく、あれが義理の兄になるとかマジ勘弁しろ」
「うーん、色々言いたいことはあるけど、これからどうするの?」
「そうなんだよなぁ。なんか多勢に無勢になってるっぽいし」
「おまけに先輩とエレアノーラちゃんも前線に出てくるし」
「埋めようにも埋めらんねぇ人数差はどうしたもんか」
「戦力差と言わないのがユーリーらしいよね」
「そういうお前もな。にしても、あいつどこに連れてかれたんだろうな」
「うーん、どこだろうね」
「最重要人物だし、乱暴に扱われてないとは思うが……無難どころで客間か?」
「いやいや、まさかぁ。定番の牢屋でしょ。手錠に足枷、いすに座らせてロープでぐるぐる巻き」
「それこそ、まさかだろ」

「……まさか定番の牢屋にぶち込まれるとはな」
「では、あなたにもわかりやすいように懇切丁寧にご説明させていただきます」
「しかも手錠に足枷、いすに座らせてロープでぐるぐる巻き。……絶対、客人に対する待遇じゃないだろ」
「そうでもしないと、あなたは本っ当-の本気でめっちゃくちゃに暴れて逃げるでしょう?」
「……やっぱ、カタリーナの顔でその口調ってすっごく違和感だな」
「申し訳ありませんが、私は、あなたが知っているカタリーナという人物を同じ姿をしているだけで、エレアノーラと申します」
「あんたとカタリーナが同一人物だったらアレクセイが悲鳴を上げるな」
「……いちいち口の減らない人ですね。かわいくないですよ」
「男にかわいげがあってどーすんだ。で、ここは、どこだ?」
「ここは、数多くある未来の一つ。現在という幹から枝分かれた可能性の未来です」


——すなわち、並行世界(パラレルワールド)

「つまり世界とは、選択と分岐で成り立っている、と?」
「ええ。本来なら、一つの未来が “生き残る”のだけど、現在は挿し木のように未来が二つできている状態なのよ。エヴェレットの多世界構造解釈からすれば単一世界の相対関係にしかないため、完全に分離していない以上、並行世界と称するには疑問の余地が残るけれど」
「言い換えるなら、並行して“生きている未来”が二つある、と解釈してもいいのかな?」
「そうとらえてもらっていいわ。本来なら虚数でしかない並行世界が実数となることは有り得ないのだけどね」
「その引き金を引いた者は別にいるとしても、〈代替世界〉と〈既存世界〉を結び付けてしまったのは間違いなくシエルでしょうね」
「二つの世界が生き残ることで生じる危険性(・・・)はさておき、当面の問題は〈初期化〉でしょうけれど」

「この世のすべての事象は、ヘス機関を流れるエーテルというエネルギーが循環する時に発生するの。そしてそれをドライブ・シフトという」
「ドライブ・シフト?」
「そんなに堅苦しく考えなくても、ドライブ・シフトは私たちにとって身近なものよ」
「まさか、法術?」
「その通り。法術に限らず、物質世界、法則世界、時空世界に干渉しエーテルを移動させる全てをドライブ・シフトと言うの。そしてそれらを管理しているのが〈ヘス機関〉こと〈創造の大樹〉。ここまでいいかしら」
「なんとか」
「了解」
「概念は一般的に伝わっているものと同じよ。この大陸では擬似的に三つに分かれた世界の一つが動くと他が連動し、それによって事象が起きる。私たち法術士は第二世界である法則世界に格納されたエーテルを第三世界に移動、すなわちドライブ・シフトさせることで、事象を引き起こしている。エーテルが移動することで残りの他世界のエーテルがある一定の方向に循環し、一周すると事象が起こる」
「確かに仕組みとしては、同じだね」
「ええ。そして、全ての始まりは四年前。一人の少年が〈対生成〉を引き起こし、〈代替世界〉へ移動したことがきっかけだった」
「まさかその少年というのは……」
「そう。あなたたちの弟にして、今もクリスティーヌと一緒に行方不明な彼のことよ」
「〈対生成〉というのは?」
「ドライブ・シフト……いえ、ブレイク・バーストの上位版に当たるものよ。強力な事象変異といっていいわ」
「ブレイク・バースト?」
「エーテル循環が滞った時に起こる最終措置。本来ならヘス機関を流れるエーテルは滞ることがない。でもイレギュラーはある。そういう時に起こる強力なエーテル移動、ドライブ・シフトのことをそう呼ぶの」
「つまり、ドライブ・シフトの上位版がブレイク・バーストで、ブレイク・バーストの上位版が〈対生成〉ってこと?」
「そういうことになるわね」
「そして〈対生成〉をエルスが引き起こした、と?」
「ええ」
「……生成というからには、何かが生まれるんだろう?」
「ええ、その名の通り産み落とされるのよ」
「何が」
「異分子——すなわち、〈不協和音〉」

「で、どうするの? 〈不協和音〉であるクリスティーヌも〈蒼の終点〉であるシエルも連れてかれちゃったけど、このまま指加えて見てんの?」
「ばぁか。んなわけねぇだろ? 奪還だ奪還」
「りょーかいっ、そうこなくっちゃ」
「んじゃ、行くか。囚われのお姫様、じゃなかった。王子様を助けに——な」

「……途方もない話だな」
「ですが事実です」
「で、俺が〈既存世界〉の出身者で〈対生成〉をしたという話は理解した。納得はしてないがな。問題はわざわざこちら側に連れ戻して俺に何をさせようっていうんだ」
「一つ目は、滞ったエーテル循環を正常に戻すこと。第三世界から第一世界へのエーテル循環が滞り始めていることで弊害が出ています。〈蒼の終点〉であるあなたさえいれば、〈同調時計〉の効果でなんとかなるでしょうが」
「〈同調時計〉の効果について後で聞きたいところだが、他には」
「〈対消滅〉の完了です。〈対生成〉を引き起こした張本人であるあなたが、後始末のことさえ忘れているというのも不思議な話ですが。エミリア・ブラーナには一度会ったのでしょう?」
「エミリア・ブラーナって、ブラーナ童話の作者だろ?  生きてるんだか死んでるんだかよくわからんやつ。それと俺がどういう関係があるんだよ」
「……あなた〈渾天儀の間〉に行きましたよね?」
「〈閉鎖街〉には生まれてこの方一度も入ったことがない」
「そもそもの質問ですが、あなた〈対生成〉しましたよね?」
「知らないっての! というか覚えてない!」
「……なるほど、そういうことでしたか。通りで話が通じないはずです。その調子だと、現在起きている〈質量欠損〉の危険性についても理解してない上に、〈対生成〉者として何をすべきなのか、誰が〈不協和音〉なのかそれすらもわかっていませんね?」
「覚えてなくて悪かったな。こっちは10歳以前の記憶がないんだよ」
「〈対生成〉で記憶が飛ぶというケースはないわけではありませんが、よりにもよって一番重要なところを忘れるとは」
「さっきから聞いていれば、溜息交じりにいけしゃあしゃあと。忘れたことの何が悪い——何がいけない?」

『もう、どうしてなんだ……?』

喉に突き刺さるような痛みを伴いながら、つぶやかれたのは小さな悲鳴。

「なるほど。ならば、忘却に奪われた記憶を無理やりにでも引きずり出さなければならないな。ふむ……、となれば」
「陛下?」
「システィーナ・フォルクロアにこちらに赴くよう伝令を渡せ」
「まさか……」
「忘れているのなら、思い出させてやるのが人情というものだろう?」
「何を言って……いえ、陛下は何をなさるおつもりですか!」

「俺だって忘れたくて忘れたわけじゃない!」

『……忘れてくれててよかったんだ』

引き換えに得たものは、あまりにも残酷な。

「これはまた、ずいぶんと警戒されたものだな。実の父がそんなにも信用できないか?」
「どうか、どうかお答えください! 陛下は……父上は彼に何をなさるおつもりですか!?」
「何、だと? 親に与えられた名すら忘れた哀れな子供に、この世に生を受けた意味すら知らぬ無垢な子に、実の母親にもう一度会わせてやろうとしているだけではないか。何故非難じみた叫び声を上げる。愛しき子よ」
「彼が、“此処”から“其処”へ至る経緯と、その過去を知り尽くした上でそう申されるのですか!」
「お前らしからぬ感情論だな。憐憫でも抱いたか? 似たような境遇を持つ者同士、甘い蜜でも舐め合うつもりか」
「私は——っ!」


「いけないわけではないですよ。おかしいだけです。思わず笑えてしまうぐらいに」
「なんだと……?」
「ええ、滑稽すぎて呆れるどころか笑いが止まらなくなりそうです。あなたとクリスティーヌのおかげでこんなことになっているというのに、肝心の張本人であるあなたが何も覚えていないことがね!」
「俺とクリスティーヌの所為……?」
「そこまでだ。エレアノーラ。後は本人が思い出せばいい」
「陛下……っ!? なぜ、このような場所に?」
「本物を見てみたくてな。……が、解せんな。なぜこのような子どもに惹かれるのかが」
「……何の話だ? それよりクリスはどこだ!」
「どちらも答えられんな。それよりシエル・フォルクロア」
「だから俺はそんな名前じゃない!」
「果たして、すべてを知ってもそう言えるだろうか。——喜べ。涙あふれる感動の再会だ」
「……再会?」
「お前の、産みの母——システィーナ・フォルクロアだ」
「え——」


錆びついていて動かなかったはずの歯車が、途切れたはずの透明な糸に繋がれて。
そうやって、車輪が容赦なく再び廻り出す音が、確かに聞こえた。


——覚醒を促すパーツもそろっておる。



“此処”から“其処”へ至る経緯と、その過去を知り尽くした上でそう申されるのですか!



ええ、お待ちかねの〈調律師〉が。




夢の卵が孵るところ——それは絶望の地。



きっかけさえあれば、絡んだ糸なんてするりと解けていた。
なぜ、こんなことを忘れてしまっていたのだろうと不思議に思うぐらい、彼女の顔を見た瞬間、記憶の糸は解けた。忘れていた記憶と過去が情報となって一気になだれ込んでくるのを自覚する。
あれほど取り戻したくてたまらなかった記憶が、あっけなく戻ってくるのを確かに感じながら。ただ、彼は母親の顔を見返していた。

「……っく、……っ! や…だ、来な…いで……っ」

部屋の隅で幼子の如く、泣き続ける女性——システィーナ・フォルクロアを見下ろしながら。

(母さん——)

その言葉を、エルスは生まれて初めて心の中で紡ぐ。
ほんの少し、彼が足を動かす。たったそれだけの動作で、目の前の女性は身をすくませた。

「お願…い……止め……て……。許し…て…」

自分と瓜二つの髪色をした女性が、かすれた声で懇願する。可哀想なぐらいに震える華奢な肩に、どことなく似ている背格好。
さすがは、理論上(・・・)自分とまるで同じ遺伝子を持つ(・・・・・・・・・・・・・・)だけのことはある。

「……お…願い……」

今にも壊れそうな儚げなつぶやきに、彼は踏み出しかけていた足をゆっくりと戻した。
双眸に苦しげな色を浮かべ、口からこぼれるのは果てしなく疲れ果てた吐息だった。

(どうして——)

断続的な嗚咽を繰り返す女性は、こちらに見向きもしない。ただ、ひたすらに怖がって泣いているだけだ。
その姿を眺めていると、不意にエレアノーラの台詞が脳裏を横切る。

——システィーナは、双子の弟に強姦されたんです。
 続くように、エレアノーラの声。
——元々、とても仲が良かったようです。まさか、そこまで執着していたとは思いもしなかったでしょうが。十七歳にシスティーナが職場の同僚と婚約して、それが発覚した途端、騒ぎが起こったそうです。まさか実の弟に襲われるなんて欠片も思っていなかったでしょうね。
——結果、産まれてきたのが、俺、というわけか。
——ええ。
——どうして、母さんは堕胎しなかったんだ?
——めったなことを言うものではないですよ。
——理由は。
——堕ろす気になれなかったのは、誰が相手であれ殺したくはなかったそうですよ。
——本当のところは?
——……。本当は、彼女が錯乱して堕ろす堕ろさないどころではなくなったんです。
——ごだごだしている間に産まれたってわけでもなさそうだな。十月十日もあれば、何かしら手段の一つや二つ思いつくだろ?
——鋭いのも困りものですね。周囲が無理やりにでも堕ろさせる予定だったそうですが、彼女、忘れてしまったんです。余りに悲惨すぎて。あなたを自分の夫の子供だと思い込んで、忘れてしまったんです。なにもかも全て。そしたら、システィーナの夫が、本当に優しい人で、あなたを育てるって言い出したんですよ。システィーナも、自分と夫の子供だと思い込んでいますから問題ないだろう、という予測の下で。
——黙ってれば、わからない。何とも都合のいい話だな。
——そうですね。まさか、こんなことになるなんて。

薄れていくように、エレアノーラの声が消え去る。

「……レ…ファーノ……嫌……」

まさか、自分の子供と、自分を犯した弟を錯覚することになるとは。
——本当に瓜二つですよ。……もともと双子ですから、似ていて当然ですが。特に瞳の色がそっくりです。あの、蒼天の青とも呼べるその色。
人から澄んでいて空のようだと愛されていたこの色の始まりが、こんな風だとは思っても見なかった。
——年齢も、似たような年頃でしたし。少し幼いですが、あなたは——

「……」


——あなたは、レファーノに生き写しですから。

「……止めて、レファーノ!」

甲高い絶叫が鼓膜を痛く震わせる。聞いている側が悲痛になるような叫び声だった。
がたがたと頭を抱えて怯え続ける彼女には、自分はどうして彼女を犯した弟にしか見えないのだろう。冷静に考えれば、レファーノではないことぐらい分かるはすだが、錯乱状態の彼女に分かるはずもない。
彼女の眼差しに映っているのは、無理やり自分を犯した弟であってシエルではない。

——これは、システィーナの家族、しいては村の総意になりますが。

少年が一歩足を踏み出す。彼女がびくん、と肩を跳ね上がらせるが、あえて気に留めず近づく。

「やめ…やめ……」

——あなたと、その全てに関わる記憶を亡くしてもらえないでしょうか。あなたがこの世に生まれたという事実が消えずとも、あなたにはできるはずです。とある存在をこの時間軸から恒久的に消滅させることが。前提条件を白紙に戻し、全てをなかったことにする。ミセリア大陸に亡命したイストリア族のスケープゴート。時空世界の干渉者であるあなたなら可能なのでしょう?
つまり、擬似的にあなたが産まれてこなかったことにする(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ことが。だから——

「……俺、は」

それがどういう意味かわからない彼ではない。
それは、この世界に息づくありとあらゆるものから否定されるということだ。
誰も、誰一人として彼を覚えていない——というより最初から知らないものとして認識する。 
虫のいい話だ。自分は〈既存世界〉に誕生し〈代替世界〉に移動し、そしてまた戻ってきた特殊な事例だ。前提条件を白紙にしたとしても、システィーナからすべての記憶が消えるかどうかなんて確証もないのに。
でも、それ以上に。

——どうか彼女を救ってもらえないでしょうか。

なんてむごい、“お願い”だろうか。
傷を抉るような数々の台詞が頭を横切っては消え、横切っては彼の心を嬲る。
これが、どうしようもない、彼女らの自己満足であり、それがシスティーナの救いなのだということぐらい理解している。認めている。他に方法はないことぐらいわかっている。頭では、十二分に知っている。
それでも。
それでも、たった一つ。それだけでいいから。

「俺は……、あなたにとって、なんだったんですか?」

膝をかがめ、これ以上にないくらい穏やかな声音で問いかける。
期待を裏切らないで欲しいとは思わなかった。
ただ——

「——っ!」

帰ってきたのは限りない拒絶。
無意識に伸ばしかけた彼の手を、システィーナは力の限り振り払った。

——たった一欠けらの救いが欲しかった。

思い切りひっぱたかれた右手の痛みはたいしたことではない。それをはるかに上回る衝撃が、全身を駆け巡る。完璧に、望みや淡い希望など底をついて費えるほどの痛みの方が、勝っていた。

「……っふ…えっ……っく……」

何度も何度も涙の跡が浮き出るぐらいに、泣き続けた彼女がついに力なく崩れ落ちる。
限界だった。このままいけば、彼女は記憶を取り戻すか、あるいは心が壊れるか——どちらにしても、最悪の結末になる。偶然の奇跡など何処にもない。御伽噺のような都合のいいハッピーエンドなど存在しない。
そんな夢物語など、最初からあるはずもなかった。
俯いたまま、表情を隠していた彼が、静かに顔を上げる。
波紋一つすら立たない水面のごとく、深淵の海の最奥のごとく、酷く凪いだ静かな眼差しだった。
手を、そっと彼女の頭の上にかざす。

「……もう、忘れていいから」

良かったね。よかったね。あなたの望みが叶ったよ。

「二度と思い出さなくていい。二度と出会わなければいい——だから、一つだけ覚えていて」

最初で最後にもらった、彼女からの贈り物。母親からもらった唯一の宝物。

「——シエル」



(ねえ。マリア。この子の名前シエルっていうのはどうかしら)
(シエル)? また聞いたことのない響きね)
天の蒼空(シレスティアル)を縮めてシエル。とっても素敵でしょう?)



「貴方が愛したこの言葉だけは、どうか忘れないで」

ぽぅ、と淡い光が風を伴って螺旋状に広がっていく。足元に描き出される光の絵は、華美な紋様を床に走らせ、眩い光を放ち続け。
やがて全てが光に包まれて。

「……さよなら。母さん」

許されるのなら彼女の幸せを祈ろう。他には何もできないから。

いつだって、此処ではない何処か遠くを見つめる双眸がふと鮮明な光を帯びる。

「人は絶望を知っても、心を失うことは出来ないんだ。たとえ壊れてしまっても」
「ユーリー……?」
「だけど、壊れてしまった心もまた、二度と元には戻らない」
「……ユーリーは、それがどんなことかわかるの?」
「さて、な」

まるで、置き忘れてきた大切なものを、探しているような顔をしているくせに。
今日だけはしっかりと此処を映していた。
それが、どうしてかは、なんとなくわかっていたけれど。

「おかえりなさい。シエル。いえ〈蒼の終点〉」
「……ただいま。エミリア・ブラーナ」