「ったく、ガキをいじめるのは感心しねぇな。〈棘の乙女〉殿」
「……なっ! ユーリー!?」
「っと、ホールドアップ、だ」
「……なぜ、あなたがここにいるんです」
「答える義務と義理はあるのか?」
「……」
「2か月ぶりだな。兄貴(エリック)は元気か」
「……ええ」
「そりゃ、息災で何より。ま、こんなえぐいことを思いつくのは、お前の兄貴ぐらいなもんだろうからな。もしくは、あの陛下か」
「兄と陛下を愚弄しないでください」
「それは失礼。ならとっとと本題に入ろうか。そいつを寄越せ」
「そんな命令がきけると思ってるんですか……!」
「もう一度言う。そこの心が壊れかけた子供を——てめぇらの身勝手な理由で壊しやがったガキを渡せ。そしたら昔のよしみで見逃してやる」
「……」
「三度はいわねぇ。だが断るってんならここでお前を凌辱してでもそいつを渡してもらうまでだ」
「な——!」
「エレアノーラに拷問の類がきかないのは昔から知ってるからな。なら、女にとって一番効果的な手段を使うだけだ」
「……っ」
「……賢明な判断だ」
「……こんなことをしても無駄だと思いますよ」
「それを決めるのはお前でも俺でもねえ。だが、一つだけ覚えておけ。二度目はねえ。次、こいつでも別の子供にでも同じことしてみろ。お前マジで犯すからな」
「……っ!」
「……さて、こっちはどうしたもんかねぇ」



しんしんと雪が降り積もる。
小さな結晶が幾千、幾億と天から零れ落ち、世界を白く深く染め上げていく。
小さな、ほんの小さな、かりそめの死にも似た静寂の世界で。

「俺は、どうすればいい……?」

小さな子どもが悲しく問うた。



「ん……」
「起きたか。ガキ」
「ガキじゃない。エルスだ……」
「そっか。オレはユーリーだ」
「お前……」
「ん?」
「もしかして俺を呼んだ奴か……?」
「……。ひょっとして、あん時お前気づいてたのか?」
「ああ……」
「そうか……、その……何ていうか悪かったな」
「何がだ……?」
「言い訳みたいに聞こえるかもしれねぇが、お前をこんな目に遭わせるつもりじゃなかったんだ」
「……ああ、お前も全部知ってるクチか」
「そういうわけじゃあねえ……でもあるか」
「どっちだよ……」
「ま、深く考えるな」
「考えるのも億劫だ……。ところで、お前は俺をおぶってどこに向かってんだ……?」
「ん……、まぁ平たく言っちゃあ、俺たちの本拠地ってところか」
「……いい」
「え?」
「俺はいかなくていい……。だから、どっかで下してくれていい……」
「あのな。お前、この寒さで放置したら凍死か野垂れ死にだろうが」
「それで……いい」
「おい、お前な——」
「……もう、いい。もう、いいから……」
「……」
「……? おい、聞いてるのか……?」
「——よくねぇんだよ」
「え?」
「お前がよくても、俺がよくねえんだよ。あとあいつもな」
「あいつ……?」
「付き合え。シエル・フォルクロア」
「だから、その名前を持った存在は最初からいないって……!」
「お前がどう言おうが、お前に——シエル・フォルクロアに会いたがってる人がいんだよ。そいつはお前のことを忘れないよう〈観測者〉になって、お前のことも周りのことも全部知り尽くした上で、待って、待って待って待ち続けて婚期まで逃しちまった、しょうもない女がいんだよ」
「そんなの、知ったことか」
「ああ、お前の知ったことじゃねぇさ。だが、俺の知ったことだ。だから連れて行く」



「君にしては、不手際だね」
「ごめんなさい」
「後悔は人生の処方箋だよ。して、彼は?」
「陛下のご意志にしたがって、然るべき場所に」
「あの人もなんだかんだで甘いねぇ。ま、彼と似たような年頃の息子がいるんじゃしょうがないか」
「例え欺瞞に満ちた世界であっても、せめて、一つぐらい救いがあってもいいでしょう」
「否定はしないよ。そのための彼女だ。使い物にならなくなってしまっては、困るからね」



滝のような灰色の瞳と、灰色の髪を流しながら、彼女は目をまるくした。

「……シエル?」
「え?」

囁かれたのは、永遠に呼ばれないはずの名前。
その名前は、もう誰も知らないはずなのに。

「まさか、本当に……? 本当にシエルなの?」

どうして、君が覚えているのだろう。

「……マリア姉さん?」



 彼が自分をあざ笑うかのように口元をゆがめる。その表情をマリアに見られたくなくて、髪の毛で隠すように顔を斜め下に向けた。
「もう、どうしてなんだ……?」
 泣きたくなるような、笑いたくなるような気分だった。壊れそうなほどかすれた声で、彼は同じことを繰り返した。
 目の前の彼女が、切なくなるほど澄んだ瞳でシエルを見つめていた。そこには、本当に会えてよかったと安心するような笑顔があった。会いたくて会いたくてたまらなかったのだというのがよくわかるほどに。それでも、どこか影があるように震えているのは、彼に拒絶されたらどうしようと思っている部分があるからで。
 そんな彼女の心か、見透かさなくてもわかるものだからシエルはさらにうなだれるしかなかった。
「……どうして」
 どうしようもないほどに救われないと思った。救われないのは自分なのか、それとも彼女なのかはわからない。焦りと困惑に満たされた言葉の数々を投げかけてしまいたかったけれど、なぜか言葉にならなくて。
 やがて、彼はできるかぎり冷たい声で突き放した。
「なんで忘れてないんだ」
「……え」
 案の定彼女の笑い顔が固まった。まさか、なじられるとは思っていなかったのだろう。
「もう一度聞く。なんであなただけが忘れていないんだ?」
 言外にシエルのことなど忘れるべきだった、という意味を込めてひどく責めるように聞く。
 彼女が喉を震わせながら、小さくつぶやいた。
「……会いたかったから」
「なんで……」
 どうして忘れてくれなかったのだ。一片たりともこの世界にシエルが生きていた証が残されていなければ、こんな。こんな——。
「なんでだよ……?」
 こんなみじめで泣きたくなるような未練など抱かなかったのに。
「……それでも、私は会いたかったよ」
 今度は、その声に震えも怯えもなかった。泣きたいような苦しいような、胸を締め付けるような痛みを覚えながらも、これ以上無様な姿をさらしたくなくて必死に表情を押し殺す。
「……忘れててくれてよかったんだ」
 吐き出された言葉は、まるで懇願のような響きをしていた。
「会いたくなんて……」
 なかった、という言葉は彼女の抱擁にとってかえられた。
 世界で一番大切な宝物でも抱きしめるように、彼女がシエルの背中に手を回す。
「……それでも、私はあなたに会いたかったよ」


切ないほど祈り求めて、会いたくて、傍にいたい。
それだけでは言い尽くせないほどのこの気持ちにどんな名前をつければいいのだろう。
嗚呼、これが、愛しいということなのかもしれない。








「……で、話はまだ終わってないわよね?」
「ええ、もちろん。〈対生成〉には続きがあるわ」
「〈対消滅〉……か」
「〈対消滅〉とは〈対生成〉と対になる形で起きる天災……みたいなものよ」
「みたいなもの?」
「〈対生成〉は世界の構造を大いに狂わせる。だから、ヘス機関が均衡を取ろうとして〈対消滅〉を引き起こすのよ。狂った構造を正そうとして」
「人間でいうところの反動みたいなものかしら?」
「そう考えてもらってもいいわ。そして〈対消滅〉は〈対生成〉に対抗するための力であり、善悪がない上に容赦も慈悲ない」
「だから、天災というわけか」
「ええ。こちらも〈対生成〉と同じで〈対消滅〉の時には同じように三つの現象が起きる。こちらは少し特徴があって、一つ目は〈対生成〉の時に起きた現象と同じ現象が起こる。二つ目に〈対生成〉された〈不協和音〉が消える」
「ちなみに三つ目は?」
「エミリア・ブラーナのみぞ知る」
「……それは、何が起こるかわからないっていうんじゃあ」
「そして、〈対消滅〉が完了してないゆえに、今まさに世界は危機にさらされている」
「さぁ、聞きましょうか。その危機とやらを」
「〈対消滅〉が完了しない場合——正確に言えば、〈対生成〉と〈対消滅〉の現象において、観測されるエーテル質量の和との差がある場合、〈質量欠損〉と呼ばれる現象が起こるわ——すなわち、世界の〈初期化〉」



「やられた……っ!」
「むごーっ! ふごごーっ!」
「ったく、あいつは人の仕事を増やす天才か!?」
「むごむーっ! むごふごごっ!」
「ったく、マルタ! お前もあっさりやられてんじゃねえっての。〈鋼のライラック〉の名が泣くぞ」
「ぷはぁっ、だっていきなりだったんだもん!」
「とにかく行くぞ」
「行くって?」
「決まってんだろ!」


『そんなに急くことはないわ。いずれ、』


「クリスティーヌ・クリストファのところだ!」



『彼は私の前に現れるのだから』

予定調和に導かれるようにして、少年は少女と再び出会う。
千切れた思いを一つにするために。




「おかえりなさい。エルス」
「久しぶりだな。クリスティーヌ王女様?」
「その呼び方は嫌がらせ?」
「当たり前だ」
「……怒ってる?」
「当たり前だ」
「……ごめんなさい」
「……ようやくわかった。初めて会った時、お前が言っていたっていうのが」

(とても、とても簡単なことよ)

「ふっざけるなよ……っ。まさか——」

(——それはね、あなたに殺してもらうため、よ)


「まさか、だったとはな!」

嘘はたった一つだけ足りなかった——最後まで。

「ようこそ。ユーリー・アシェル。天使の迷える地へ」
「そうやっていると本当にクリスティーヌと瓜二つだな。いや、瓜二つというのは誤解を招く言い方か」
「どういうことかしら?」
「なぜなら、お前こそが〈代替世界〉のクリスティーヌだからだ。そうだろう? ジェシカ・ル・ロア」
「——ご明察」

「三か月前、俺が〈代替世界〉から〈既存世界〉へと帰ってきた時。本当ならあの時に、〈対消滅〉が起きるはずだった。そうだな?」
「ええ」
「そして、お前はその〈対消滅〉で、文字通り消滅するはずだったってか!」
「その予定……だったわ。けれど、それは失敗に終わってしまった。だからあなたに——」
「ふざけんな! だから今度こそ俺に殺してもらおうってか!」
「被造物は創造主の手にかかるのが摂理。〈不協和音〉である私は、あなたにしか殺せない」
「そんな……っ、そんな戯言を振りかざすなぁ——ッ!」

「ま、そうだな。エルスがクリスを殺せば〈対消滅〉が完了して万々歳ってか」
「少なくとも彼女の予想では」
「予想? ハッ、演算(・・)の間違いだろ」
「誤算だったのは〈対消滅〉によってクリスティーヌが消滅しなかったということ」
「もっとも原因は、かつて私たちが手を染めた禁忌(・・・・・・・・・・・・・・)の再犯でしょうけど。〈調律師〉ランクでない人間では、人為的に〈対消滅〉は引き起こせないということかしらね」
「それで慌てて隠ぺいか。すべての責任を俺たちに押し付けて。こんなの自業自得だろーが」
「あんたはどうするの」
「どうにもできねぇだろ。そもそも俺たちは、法院の都合で効果範囲の——正しくは“影響”というべきか? まぁどっちでもいい。とにかく効果範囲外のミセリア大陸に揃ってご隠居した第三世界干渉者の代わりにエルスを連れ戻したんじゃねぇ。エミリア(・・・・)ブラーナを助けるため(・・・・・・・・・・)に〈蒼の終点〉であるエルスが必要だったから呼んだんだ。扉を破壊しないと〈渾天儀の間〉に入れないからな。んで、状況が変わって、このままいくと俺たちがヤバいからって、あの聖女様をあいつの前に突き付けて、この娘を殺せって命令しろってか? 冗談じゃねぇ。誰がんなことできるかよ」
「そうだね」
「……俺でも、他の誰かでもいいから、それが出来りゃよかったんだけどなぁ」

(できると思うか?)

「……できねぇよ。できるわけがねぇ」
「そうね。でも——」

(出来ないでしょう。ただ)
(ただ?)



(クリスティーヌが、させる(・・・)でしょう)

「——クリスティーヌが、させる(・・・)わ」

それは必然でもなければ予言でもない。単なる歴史なのだから。

「俺がお前を殺す? はっ、笑わせるな!」
「冗談を言っているつもりはないわ」
「死にたきゃ勝手に死んでろ!」
「もう試したわ」
「……え?」
「試したのよ。自分で死ねるかどうか。あるいは、誰かに殺してもらえれば死ねるのかどうか」
「嘘……だ、ろ……?」
「ごめんなさい。あなたは、きっとできないと思ったから」
「……答えろ。どうして俺だ」
「他の誰にもできないからよ。そんなことぐらい、あなたにもわかっているでしょう。そして〈調律師〉ランクの人間はこの世界にあなた以外に存在しない」
「できるわけ……ないだろう……? そんな、クリスを……俺が、殺す……?」
「こうなった以上、あなたには嫌な思いをさせるけれど——」
「しない」
「え……?」
「俺は何もしない。俺は、クリスを殺さない」
「エルス……」

「お前には断罪の剣と贖罪の荊冠が似合うな」
愛する者の為に生き、愛する者の為に己を犠牲にし、愛する者に背を向ける裏切り者。

「なるほどな。既に楔は打ち込まれ、錠は落とされてるわけか」
「ええ。今までは〈既存世界〉のエルスが〈代替世界〉にいるからこそ、それをきっかけに二つの並行世界が交錯する可能性があったわ。でもエルスは今こちらにいて二つの世界が完結してしまった。もう恐らく移動は無理でしょうね。まぁ、〈調律師〉ランクの干渉者ならその限りではないけれど」
「別に奴は〈既存世界〉の出身だ。今更戻る必要もないだろう」
「……そう、ね。ちなみに、それはあなた自身へ言い聞かせているのかしら」
「……どういう意味だ?」
似たような経験(・・・・・・・)をしたことのあるでしょう? ミハエルはエルスのように世界を移動したわけではないけれど、元いた世界が自分の居場所だと思っているのかしら、と思って」
「…………正直、今とても、相当に驚いている。まさかそこまで知っていたとは」
「教えてもらったのよ。私自身の力でたどり着いたというわけではないわ」
「なるほど、そうか……そうだな。そうかもしれないな」
「大事に思える故郷があるっていいことね」
「……クリスティーヌ、君に一つ聞きたい」
「どうぞ」
「……君は彼と出会う前から自分が〈対生成〉で生まれて、〈対消滅〉で消えると知っていたのか?」
「ええ、16年前に生まれたときから」
「……彼が、〈対生成〉者だということも?」
「……ええ」
「それだったら、なぜ——」

過去と未来を代償に、帰る場所を失った時の迷い子は暗い海の水底をさまよう。
何かを探し求めるように。

「俺が〈対生成〉を引き起こして、彼女が〈不協和音〉だから?」
「ええ、そうです」
「だから、取り除く必要が——消さなければならないっていうのか」
「ええ、そうです」
「たったそれだけの理由で、俺が彼女を手にかけなければならないのか?」
「ええ、そうです」
「それだったら、なんで——」

「殺せるほど憎ませてくれなかったんだ」

「……始まりやがったか」
「そうね」

「……始まったってなにがよ」
「一つ聴きましょうか。第三世界である時空世界が停止することで、残りの物質と法則世界にどのような影響が現れると思う?」
「言い方が姑息よ。明瞭完結になさい」
「では、言い換えてあげる。クリスティーヌが存在することで、全ての存在が消去されるとしたら?」
「それは一体どういう意味よ。そもそも〈初期化リプログラミング〉って一体なんなのよ!」
「簡単に言ってしまえば、世界の終わりだよ」

「なんて、もろく儚く、不完全な人の創造物……」

失われていくのは残滓。
痛みはない。痛みすら残さない泡沫の記憶。
静謐なる鎮魂歌が嘆きの海に帰っていく。


人にとって都合のいい機械仕掛けの神様(デウス・エクス・マキナ)とはそういうものでしょう」

「所詮“世界(ヘス機関)”なんてものは、子供が造ったおもちゃみたいな“がらくた”にすぎないのだから」

存在と時は意味の上で表裏一体。
時の流れがあるからこそ、存在に変化がもたらされ、存在のない世界では時を刻む意味がない。
存在がなければ時の流れは価値がない。
時の死は存在の死。また逆も然り。

「ふざけんな!」
「ちょっと落ち着いてってば!」
「お前は知ってたのかエレアノーラ! こうなることを!」
「……ええ」
「この、くそったれが!」
「やはり、早すぎた……、いや遅すぎたのかもしれんな」
「——それだったら、ヘス機関とやらをぶっ壊してでも止めてやる!」
「〈調律師〉でもないあなたに何ができるんですか、といったところで聞かないんでしょうね……」

鳴り響くのは終焉の鐘。地平線の崩壊。万物の因果消滅。
一度回り始めた歯車は止まらない。オルフィレウスの自動輪がそうだったように。
こくこくと。刻々と。酷々と。
世界を、人々を、物質と法則と時すらも穢れた果実と共に呑み乾して。

「——彼女はすべて知っている」
「……知ってるって、何を」
「このままだと、世界がどうなってしまうのかを」
「——嘘だ」
「事実だ。そして、彼女はこうも言っていた」
「……聞きたくない、聞いていない、——聞こえない!」
「願うなら、お前に殺されたいと」
「……いやだ」
「だが、そうしなければ事態は〈既存世界〉だけにとどまらず、〈代替世界〉も無事では済まない。もともと二つの世界は一つだったのだから。〈初期化〉によって世界は消失の一途をたどり、いずれ完全に虚無と化す。破壊されるのではない。なかったことにされるだけだ。お前がこの世界に産まれなかったようにな」
「そんなことぐらい、わかってるさ……っ。でも、だからって! 彼女を引き換えにして生き延びろってか!」
「そうだ」
「……っ。俺は——! 俺は……、ただ、彼女がいなくなるのが嫌なだけなんだ……」
「それは……。……すまない、無理だ」
「あんたらは……っ!」
「——私は昨日母と妹を失った。そのことを誰も覚えていない。叔母も、兄も、父も、誰一人として二人を喪るものはいなかった。友人や愛する人にすら忘れ去られた人の尊厳はどうなる」
「それは……」
「君は言ったな、クリスティーヌを犠牲にして生き延びろというのか——と」
「……」
「ならば、問おう。大勢の人々を犠牲にしてクリスティーヌに生き延びろというのか? 否、生き延びることもできない。なぜなら二つの世界はここで消え去るのだから。誰にもわからない形ですべては終わる。お前はさぞかし本望だろうな」
「——っ!」

どうすればいいのかわからなかった。
どうしようもなかった——それが“事実”だ。

「なぁ、クリスはどこに行きたい?」
「行きたいところ?」
「お前が望むのなら、どこへでも連れて行くから」
「これは、最後の猶予期間(モラトリアム)と思っていいのかしら」
「……そう、だな。そうかもしれない」
「それなら、〈空と海の境界線〉がいいわ」
「じゃあ、行くか」
「え? 今からじゃ日が暮れるわよ?」
「いいんだよ。日が暮れたって。行ける機会なんてもうないんだから」

いつも、いつでも、いつまでも笑ってくれた君は、あの頃何を思っていたのだろう。
わからなくて、わかれなくて、わかりたくなくて。
結局、子供じみた我が儘を言うことしかできなかった。

「……お願いだから、死にたくないと言ってくれ……っ!」
「エルス……」
「本当は死にたくないんだろ! 生きていたいとか、心のどこかでそういう風に思ってたりするんだろ! だったら、そう言ってくれよ! 死にたくないと——それだけでいい、たった、それだけでいいから!」

「——ごめんなさい」
「……だったら、俺を殺せばいい」
「エルス?」
「俺が死んで、その後に意図的に〈対生成〉を起こせばいい。〈不協和音〉を殺すのに必要な条件は、〈調律師〉ランク以上なんだろう。俺が生きている以上、〈対生成〉を引き起こしてもそのエーテルの流れは俺に引き寄せられてしまうが、俺が死ねば全ては白紙に戻る。そんなに死にたいなら、次のそいつに殺してもらえば——」
「……エルス」
「…………ごめん。……でも、俺は——」

続けたかった言葉は、最後まで声にならなかった。
伝えられなかったあの日の言葉をかいなに抱きながら、君は逝ってしまった。

「いたぞ!」
「そんな、なんで——っ!」
「手間をかけさせてくれるな。クリスティーヌ。君も連絡が遅い」
「連絡……? 連絡って、どういうことだクリス」
「そのままの意味だ」
「まさか……クリス、お前が?」
猶予期間(モラトリアム)はもう終わりにしましょう」
「〈調律師〉と〈不協和音〉をとらえよ」
「なんで、どうして——なんでだ、答えろクリスティーヌっ!」

誰よりも優しくて、残酷な事実を突きつけながら。
慈しむような寂しそうな、雪のように儚くて淡い微笑みを浮かべて。

「鬼ごっこは楽しめたかな。〈調律師〉」
「……」
「だんまりか。随分と大人しくなったものだな。てっきり怪獣のように暴れるかと思ったのだが」
「クリスティーヌは」
「どこにいる? という意味で問いかけているのなら、答えるわけにはいかないな」
「無事かどうか、という意味で聞いている」
「ああ、そういうことならいくらでも安心させてやろう。彼女は丁重に、傷一つつけることなくミハエルと一緒に客間で待っていてもらっているさ。お主と同じように、その役割を果たしてもらうために。」
「やく、わり……だと?」
「役割だろう? 犠牲という名前のな。最初から最期まで“存在しなかった”犠牲の礎。悲劇の犠牲者」
「……さっきから“犠牲”、“ぎせい”、“ギセイ”って……! いい加減やかましいんだよ!」
「やれやれ。せっかく、記憶を取り戻させてやったというのに、お主はまだ〈対生成〉を引き起こした者としての自覚がないとみる。英雄になりたくないのか?」
「英雄? はっ、笑わせる。そもそもの元凶は〈法院〉だろうが」
「諸悪の根源がそこにあろうとも、この切羽詰まった状況を回避できるのは、どういう悪夢かお主しかいないのでな。他に〈対生成〉を起こした者がいればよかったのだろうがな。あれがそうそう起きるものではないことぐらい、お主が一番承知しているのでは?」
「悪かったな。悪夢で」
「なぜお主なのかと本当に糾弾したくなる。こんな地団太を踏むことしかできない、我が儘を言うだけの子供だったのか、と。その点クリスティーヌはとても思慮深く分別のある娘だ。さすが聖女と謳われるだけのことはある」
「……クリスと話したことがあるのか」
「意外かね? 例え死刑囚だろうが、その人物がどんな人柄を見極めるぐらいの公平さは持ち合わせているつもりだよ。これでも、理不尽な処刑は好かない性質のつもりだ」
「目的のために必要とあらば、理不尽すら超越した暴力を奮うやつが言っても説得力がない」
「どうやら、システィーナ・フォルクロアの件がよほど気に喰わなかったとみる」
「当たり前だ」
「罪滅ぼしにもならんとは思うが、フォルクロア夫妻とその娘には今生の安全を保障している。彼らを脅かす存在はいかような手段を用いても我々が除き去ろう。これは君が行った最初で最後の親孝行に敬意を表してのことだ」
「勝手なことばかり。よく舌の回る口だ」
「……時に〈調律師〉。強制契約書、という代物をご存知かな」
「そんなものまで出してくるとはな。罪人にのみ使用許可が下りているんじゃなかったのか」
「たった一つの同意の言葉で、契約書に書かれた内容を強制的に行わせる——無論、今回は例外中の例外だ」
「そこまでして、俺にクリスを消させたいか」
「違うな。消させたいのではないのだよ。自らのしたことに対する後始末をしてもらいたいだけだ」
「じゃあ、あんたが逆の立場だったら“はい、わかりました”って従ったのか」
「それが、私の子供たちが生きられる未来をつなぐ唯一の手ならば」
「……」
「言いたいことがあるのなら、何とでもいうと言い。私はこの世界の王だ。国民を、この大地を守る責務があり、そして私も子供たちを守りたいのだ。この先、子供たちが学び、励み、高め合い、充足を得る将来を」
「知ってるさ」
「貴様が、あの娘を守りたいと願うのと同じように、守りたいと願うものがあるのも私も同じなのだよ」
「ああ、相思相愛なようで」
「まったく相容れない相思相愛ではあるが」
「同感だ。そして、何度問われようとも同じだ。俺は、クリスを消さない」
「強情な。——こやつを牢へ連れて行け」
「……拷問でもするつもりか?」
「拷問とはなかなか物騒だな。ただ、少しの間交渉をさせてもらうだけだ」
「交渉、ね。白々しい」
「それではお主が“Yes”と口にし、強制契約書に刻印が刻まれるのを待っているとしよう」
「……どこまでも下劣だな」
「私は、お主のように優しくはないからな」

重々しい音と共に閉ざされたのは、光そのもの。
永劫に等しい闇の中で、どうして狂わずにいられるのだろう。

——およそ、地獄というものを見た。
光が一筋だけ差し込む鉄格子の牢屋に入れられ、氷が敷き詰められたような寒さを味わいながら鞭を振るわれ、いたぶられる日々が続く。
凍るように冷えた身体に、鞭が浴びせられるたびに皮膚が沸騰したように熱を持ち、じりじりと火傷にも似た痛みが神経をくすぶらせる。
意識を失えば、文字通り氷水を頭からかけられ、それで目覚めなければ頬骨を砕くほどの拳が落とされる。
殴られ蹴られた回数は、もう数えたくもない。
少しでも身体がよじれれば、骨の上を蟻がはいずりまわっているような痛みが通り過ぎたのを、深い霧のような記憶の狭間で感じた。胃の中のものすべてを吐き出し、それでもうっとうしいほどの気持ち悪さは抜けなくて、ついには血をむせ返らせた。
それでも、身体は満足しなくて。
自分で自分の身体を傷つけるように、咳き込んで咳き込んで。
惨めな嗚咽だけが喉に引っかかったまま出てくることはなかった。

それでも。
それでも、エルスは決して“Yes”という言葉を唇から落とすことはなかった。

 生きているのか死んでいるのか、それすらもよくわからない感覚の中で、心臓だけが妙に生々しく脈打っている。
 血液を送り出し、胎動する心臓の音が頭の奥を揺さぶって支配する。聞こえてくる音はそれだけ。

「……だ、……ん…な!」

遠い別世界で誰かの怒声が紛れ込んでくる。なんとなく聞き覚えのあるような硬い声音だった。誰だったっけ、と考えようとしてそれすらも億劫でやめた。

「誰が拷問しろと言った!」

次第に脳が覚醒する。どうやら真面目で堅物な声の主が、ものすごい剣幕で怒鳴っているらしい。

「も、申し訳ありません!」

焦るような足音がして、体がふわりと浮かんだ。丁寧でこちらを気遣うようなそれなのに、電流でも流されたような痛みが走り、びくりと震え上がる。

「おい、しっかりしろ」
「エルス!」

うっすらと瞳を細めるように開いてみれば、すみれ色の瞳に涙をいっぱいためたクリスティーヌが彼の手を取ってすがるように泣きじゃくっていた。
ぼろぼろと零れ落ちる彼女の涙が頬に触れ、熱い。

そんな彼女の顔を見た瞬間、どうしようもなく狂おしいほどの懐古に襲われた。

「……お願…い…だから、お……れを…殺して……」

掠れるほど擦り切れた声で請う。

たった、それだけが彼の望みであり。
そして、彼女が何よりも望まないことだった。

そう口にすると、純白の服が血まみれになるのを構わずにクリスティーヌが一心に抱きしめてきた。
身体は痛むはずなのに、なぜか彼女の体温は心地よくて、まどろむように瞳を閉ざす。

「———」

瞳が閉ざされる直前、彼女が口にした言葉は一体なんだったのか。
暗転する深い闇の底で、それだけは覚えていられなかった。