痛みを味わいながらの意識の浮上は、存外に生易しくない。

「気分はどうだ?」
「……最悪だ」
「そうか」
「死に損なった、か」
「なにをくだらないことを言っている」
「……あのまま、殺してくれればよかったのに」
「それを、彼女が望んでいると思うのか」
「残酷だ。彼女は。俺がしたくないことをしろって言って、俺が望むことはさせてくれない」
「どっちもどっちだろうが。これからお前の面倒は私が見る」
「なにを言われたって、俺はクリスを殺さない」
「……どうだかな」
「なんだと」
「外を見ろ」
「……これ、は」
「聞かずともわかるだろう。〈初期化〉だ」
「だって、こんな頻繁に……。〈質量欠損〉が起きたとしても、ヘス機関のエーテル循環がそこまで滞らなければここまで酷くはならないはずだ」
「今使える〈特異点〉候補者すべてを頼って、このありさまだ。循環率は15%以下。お前の足元にも及ばない。それだけ世界は切迫している。観測によれば、三分に一人、世界からその個人が消えていく。誰かの記憶に残ることもなく、な。この分だと〈代替世界〉もどうなっていることやら」
「そこまで……? 補助装置……、いや、最終措置はどうなってる」
「その最終措置がそれを言うのか」
「……っ」
「前提条件を白紙にされるということが、どういうことか。それを思い知ったお前なら事の深刻さがわかるだろう。このままでは世界規模の異常事態に発展するのも時間の問題だろうな」
「……」
「……お前が根をあげるのと、世界が滅びるのと、どっちが早いのだろうな」



沈黙の賢者と聖女は静謐なる森の奥で、約束を交わし合う。


「まだ、諦めがつかないようじゃのう」
「そのようですね」
「しかし、本当にいいんじゃな?」
「ええ、構いません」
「本当にお主は最悪の役回りを演じるのう」
「最悪だなんて思ってません。むしろ、望んだことですから」
「——では、公衆の人々に世界の真実の開示を」



 かすむ視界、激しい剣戟、泣き叫ぶ声、何かが引き裂かれる断末魔の悲鳴。
何も見えないまま、ひたすらに駆け抜けた。
 がむしゃらに走っていた。正直、どうやって、そこへたどり着いたのは覚えていない。
 ただ、民衆に連れ去られた彼女の処刑だけを何としても食い止めなければならなかった。
無理やり人をねじ伏せ、殴打され、殴り返し、そうやってただ突っ走る先で、彼女の血浴が広場に作られていた——死んでも死にきれない、〈不協和音〉の少女。
 どれだけ心臓を突き刺されようが、肉をつぶされようが、脳を砕かれようが。
彼女の血の雨が降り、泉となり、血の海となる。死ぬほどの激痛に苛まれながら、なおも生き続ける。
 人を模しただけの〈不協和音〉は、人と同じように死なない。死ねない。


「もう、やめろ!」

 何度も何度も剣で突き刺される彼女を見ながら、エルスはたまらずに叫んでいた。

「俺が、するから……。俺が〈調律師〉だから!」

 人々は振り返らない。ただ、死なない少女の躯に剣を突き刺し続ける。
 痛みに狂い死ぬことも許されない少女を見上げ、どこが痛いのかわからない。
 瞳の奥が熱い。喉の奥は乾ききって、身体が引きちぎられるような痛みに心が悲鳴を上げていた。

「俺が殺すから彼女をもう傷つけるな!」

 誰も、彼の叫びなど聞いていない。



「……では、強制契約書にサインを」
「いらない」
「そうでもしないと、上の人間が安心しないんでな。また、君がクリスティーヌをつれて逃げ出すのではと危惧しているらしい」
「そんなことしなくても、ちゃんとやるから。そんなものは必要ない」
「……しかし」
「あんたの言い分はわかるけど、そんなのなくてもやるからいい」
「……わかった」
「意外とあっさり引き下がるんだな」
「君がそういうのであれば、約束はたがえないだろう」
「どうだかな、クリスを掻っ攫ってまた逃げるかもな」
「しないさ。君はあの現場を二度見て、耐えられるわけがない」
「……。そう、だな。……あれは、もうみたくない」












 誓いでもするように、時計の針にも似た剣を静かに掲げてみせる。
 目の前に立っていた彼女は、祈りでも捧げるように手を組んで瞳を閉じていた。

 なにかを祈っていたのかもしれない。
 なにかを願っていたのかもしれない。
 なにかを望んでいたのかもしれない。

 ただ言えるのは、“それ”が彼女からの最期の言葉だったのだろう。
 最期だというのがひどくいやだったから、その唇が開かれる前に自分のそれを重ねてふさいだ。
 がむしゃらに、乱暴に、こたえることさえ許さない、ただ奪っていくだけの口付けを落とす。
 それと一緒に、彼女の温かな胸に剣を突き刺した。
 口付けた先から流れ込んでくる生暖かな血さえも飲み干して、狂おしいほどに求めて抱きしめて。
 ゆっくりと瞳を閉ざした彼女が、愛しげに彼の髪を撫ぜようとして——



“ねぇ、エルス”

“んー?”

“わたしね、あなたのことが——”


 するりと糸がほどけるように、花びらがひとひら舞い落ちるように白い手が滑り落ちる。
 そこでようやく少年は唇を離して、紅い血の花が咲き誇る彼女の胸へと顔をうずめた。

 彼女のぬくもりに二度と触れられないことが悲しく。
 彼女の歌声が二度と聴けないことが悲しく。
 彼女の笑顔が二度と見られないことが悲しくて。

 ただ、静かに少年は蒼空色をした瞳から涙を一滴こぼした。









「……まったく、手間をかけさせてもらうものだな」
「……ジェシカ」
「たかだか小娘一人でここまで手を煩わせるなんて、我が弟子の無能にも勘弁してもらいたいものだ」
「ジェシカ」
「まぁ、これで私の荷もひとつ下りたというわけだが——」
「ジェシカ!」
「ああ、なんだうるさいぞカタリーナ」
「そういう風に自分で自分を慰めるのはやめて」
「慰める? 私が? はっ、私を愚弄するのもほどほどにしてもらいたいものだな」
「だって、あなた——泣いてるわ」



“ありがとね”

(ん? ああ……、どういたしまして)

“それから、ごめんね?”

(うん、とっても悪い。ものすごく悪い。めちゃくちゃひどい)

“いじわるね”

(お前と違って、性根が生まれる前から捻じ曲がってるからな)

“いじわるでそっけなくてかわいくなくて、そのくせあまいものにはみさかいがなくて”

(あー、はいはい、申し訳ございませんでした)

“ぶあいそうでふてぶてしくて、ないてるひとをみすてられなくて、ひどいくせにやさしくて”

(……?)

“そんなあなたがだいすきだった”

(……。おれも……、俺も、お前のこと、嫌いじゃなかったよ?)

“すなおじゃないわね”

(悪かったな)

“でも、ありがとう”

(どーいたしまして)

“それじゃあ、あとはおねがいね”

(ああ、わかったよ)



「てっきり涙なんて、とうの昔に枯れ果てたものだと思っていたわ……」
「水が時に枯れ果ててもついえぬように、涙も枯れないわよ」
「そうね。ただ、お前はひとつだけ勘違いをしている」
「え?」
「クリスティーヌ・クリストファとは初めから存在しない(・・・・・・・・・)私の妹ではない」
「……? それじゃあ彼女は一体——」
「彼女は私だったかもしれない他ならない私(・・・・・・・・・・・・・・・・)なのだから」
「え……?」


「……もう、行くのか」
「ここにいる必要もないからな」
「そう言われてしまうと、何も言えなくなるな」
「それと、一つ訂正させてもらうが“行く”んじゃなくて、“戻る”んだ」
「なるほど。……それにしても、平和な風景だな。平和すぎて違和感すら覚えるほどに」
「最初から〈初期化〉も〈対生成〉も〈対消滅〉も起きなかったんだから、誰かが知っているはずもない」
「だが、証人はいる」
「誰の記憶にもとどまらず、証拠すらない歴史が肯定されるのか?」
「だが、真実が事実とは限らないだろう?」
「それは……。……なぁ、一つ、聞いていいか?」
「なんで
「……あんたも、クリスのことが好きだったんだろ?」
「……。ああ」
「それなら、どうして彼女を殺そうとしたんだ?」
「それが、彼女の望みだったからだ」
「……それでも俺はそれをしたくなかった。そういった意味では、あんたの方が彼女を理解してやれてたんだろうな」
「だが、君のやり方が間違っていたわけではないだろう?」
「あんたのやり方が間違っていなかったようにな」
「そうだな」
「そして、正しくはないからこそ俺たちは生き延びている。いつも世界はそうだ。正しくもないが間違ってはいないやつが生き延びる」




もう、彼女は亡骸でさえ残っていない。
最後までさよならは言えなかった。




「終止符が打たれたってのに、意外となんの感慨もないもんだな」
「これが終わりじゃなくて、単なる通過儀礼だってこと忘れてるでしょ。まだ何も終わっていないんだから」
「確かにな。こんなのは来るべき時の影であり、実質のないただの空虚な兆しでしかないってね」
「彼もまた、刻限にたゆとう定め。なぜなら——」






「……また、会えるだろうか」
「いいや。さよならだ」
「なに?」
「もう会わない。もう会えない。俺は二度とこの世界に来ない。それでも、ちゃんと彼女との約束は守りきるし、彼女の願いも果たす」
「……わかった」
「これの余波で残りの扉も崩れやすくなってるだろ。〈白の始点〉と〈水の交差点〉に破壊させたところで、二人とも命を落とすまではいかないんじゃないか。確定していないとはいえ候補者には……もちろん、宛てがあるんだろ?」
「ああ」
「他に聞きたいことは?」
「……アシェルや陛下たちは気付いていないようだが、個人的に一つ確認したいことがある」
「なんだ?」
「実際のところ〈対消滅(・・・)はまだ完了していない(・・・・・・・・・・)、そうだな?」
「……」
「〈不協和音〉であるクリスティーヌの消滅によって、一時的に〈質量欠損〉はおさまっているように見えるが、〈対消滅〉は完了していないのだろう? 完了していない以上、第二の〈質量欠損〉が起こる可能性がある」
「……よく気づいたな」
「そして〈質量欠損(・・・・)が起きた場合(・・・・・・)残りの事象は自動的に起こらない(・・・・・・・・・・・・・・・)。人為的に〈対生成〉者、あるいは〈調律師〉ランクの者が〈対消滅〉を引き起こす必要がある、そうだな?」
「なんで、あんたそれを……」
「アシェルから聞いているとは思うが、我々が〈代替世界〉から君を連れ戻したのは、こちらの世界のエーテル循環が滞っていたからだ。最終措置である〈蒼の終点〉である君が世界に及ぼす影響は思っている以上に大きい。〈対消滅〉を誘発する意味合いも込めて、〈ゼノン解放戦線〉が君をこちら側に引き戻した」
「もっとも、ユーリーたちは人柱を壊して〈渾天儀の間〉にいるエミリアを助けるのが目的だったんだろう? そうすれば、エーテル循環も何もかも意味がなくなるからな。俺がいなくなったところで、再びエーテル循環が滞ることもない」
「ああ、そうだ。だが、人為的に〈対消滅〉を引き起こそうとしたからなのか、クリスティーヌは消滅せず、〈質量欠損〉が起こった。その場合、〈対消滅〉の時に起こる残りの事象は〈対生成〉者が引き起こす必要がある。そうだな?」
「正しくは、〈調律師〉ランクと呼ばれる存在なら誰でもいいんだ。もっとも、そのぐらいの力量を持つ者はそうそういないけどな」
「〈対生成〉と〈対消滅〉の現象において、観測されるエーテル質量の和との差。その分だけ、君は巨大な事象を一つ引き起こすことができる。〈対生成〉を引き起こした身として、その差がどれぐらいなのか、わかっているんだろう?」
「まぁな。今回、〈質量欠損〉が起きた分も考えれば、並行世界を移動してもお釣りが返ってくるぐらいだろう。要するに、そんなもんじゃ今回の〈対消滅〉は完了しないってことを意味するわけだが」
「つまり、理論上では、そのエーテル分だけなら、君はどんな事象も引き起こすことができる。君はヒストリア族だから、時空世界に関わることしかできないだろうが。だが、下手をすればこの世界の仕組みを作りかえられるほどの何かを引き起こすことができる」
「……そういうことになるな」
「それを理解した上で、君は何をするつもりだ?」
「——それは」




音にならない声で、少年は僅かに微笑みながら告げる。


「……本気か」
「でなければ、俺は〈代替世界〉に戻ろうとはしない」
「……君はなんというか、ことごとく、いらない苦労と責任を負おうとするな。最初の引き金を引いたのは、恐らく私の母親だというのに」
「……なるほど、あんたの母親も俺と同じでそうだったというわけか。だが、それを結び付けてしまったのは、間違いなく俺だからな」
「それなら、こちら側に残るという方法もあるだろうに」
「今度は〈代替世界〉すべてを犠牲にして?」
「……すまない。そういうつもりはなかった。だが、いずれ気づく者が現れるぞ。並行世界と未来搾取の構造。もちろん、存在確率の件も含めて。君がやろうとしているのは、お互いの未来が存在をかけて殺し合う未来だ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。そうなれば、こちらも黙っているわけにはいかないだろう。それでもやるのか?」
「それが彼女との約束だから」
「……はぁ。それで、話は戻るが、結局会わなくていいのか? アシェルたちもさることながら、マリア・ハーゼンクレヴァにも」
「いい。たが伝言だけ頼む。——世話になったって」
「そうか。しかし、結局本名をもらわなかったのは、決別の証、と言ったところか? そちら側に戻るのであれば、シエル・フォルクロアでも構わないだろうに」
「……どうだろうな。どちらにしても、シエルは最初から最期まで存在しなかった。あの時俺はそうしたから。それに、墓もある。だから、ここにいるのはただの“エルス”だ」
「そうか……。ならばもう言うことはなにもあるまい。そして、この先、会いまみえることもないだろう。君の計画が上手く行けばの話だが」
「そう願いたいもんだな。あんたみたいな堅物は、厄介で面倒だ」
「ふっ、最後まで口の減らない奴だ」
「あそう」
「かわいげもない奴だ」
「ユーリーといい、どうしてお前らは揃いもそろって俺に可愛げをもとめるんだ?」
「君が子供だからだろう」
「……あんたはともかく、俺以上にガキっぽい言動をしてくれたユーリーにそう言われるのは納得がいかない」




「では、さよならだ」
「……さようなら」



そして歩き出した。闇に染まり始めた琥珀色の空。日が沈む方角に向けて。




「たとえ、過ぎし日の再会が来ないとしても」


「忘れないから——絶対に」



愛する人に花を贈りましょう。
二度と、会えない彼女のために約束を果たしましょう。
亡骸には花と涙を。残された者に形見と想いを。
終焉の曲が響く世界に、生きる人々に調和と始まりの創始曲を。
彼女に幼年期の終わりを。
それが、たった一つの願いだったから。



「……そう、いつか——」

彼は告げる。星が瞬き始めた夕闇の空を見上げて。

「そう、いつか、君と交わした約束を果たしにいくんだ。彼女に会いに行くために——ね」

……End & Re:Start

Do you long for the light——?
( 汝、光を欲するか——? )