〜 二譚 〜

 薄っすらとしたミルク色の霧が、ヴェール・ド・マーレを包んでいた。
 桃色や黄色といったカラフルな壁が、朝日を浴びて、みな同じセピア色に染まる。
 まだ眠りから覚めない幻のような金色の世界の中、トーリは剣を真っ直ぐ、横に振り払う。
 斬る対象が実際に目の前にいるつもりで、今度は一閃、逆袈裟斬り。刃を返す要領で、袈裟斬りにつなげる。
 続いて、腰を押し出すように剣を水平に移動させ、目線を一定にしながら相手に対して鋭く突き出す。打突後は素早く相手に体を寄せ、足元を刈るのも忘れない。
 上段の構えからの素振り、手首の切り返し、打突につながる太刀筋の確認……
 今すぐにでも飛び込めそうなほど傍にある青い海に、剣を振るうトーリの影が揺らめく。
 ざあ、ざざあ、と木々が揺れるような潮騒の音だけが響いていた。
 大きく、強く、速く――そして、軽やかに。
 今は亡き、師にして父の言葉を繰り返す。
 素振りを繰り返すうちに集中力が研ぎ澄まされ、風と波の音が聞こえなくなる。
 自分と相手。暗闇に浮かぶ二つの点が線で結ばれる感覚。
 心が凪のように静まり返るのをトーリは感じた。そこに一切の乱れはない。
 ――いける。
 確かな手ごたえに、トーリは一歩前に踏み込んだ。
 石畳を踏みしめ、剣の柄を握り直し、力を解き放つつもりで意識を極限にまで研ぎ澄ませ――
「トーリさん?」
 いきなり横から飛んできた声に、びだり、と硬直していた。
 今まさに下へ振り下ろされようとした剣が、宙で止まる。
「ふ、フリア!?」
 見れば、アーチをくぐりながら白い少女が細い階段を下りてこようとしていた。その肩に、クィーはいない。
 フリアは、剣を頭上で掲げたまま制止しているトーリの格好を見ると、きょとんと目を瞬かせた。
「こんな朝から何をしているのですか?」
 言いながら、フリアの視線はトーリが持っている剣へ。
 反射的にトーリは剣をぱっと後ろに隠した。
「な、なんでもない……」
 とっさに首を振って誤魔化す。
 隠すものでもないのだが、なんだか恥ずかしいところを見られた気がして、身を縮こまらせる。
 フリアは気にした風もなく近づいてきた。
「もしかして、毎朝私より早く起きて、この訓練を?」
「まあ……ね」
 あいまいな返事で濁した後、トーリは観念して説明する。
「〈竜の里〉にいた頃から、毎朝、日課のようにこなしている自己訓練なんだ。旅を始めてからもずっと続けていた」
 そう言って、背中に隠した剣をフリアの前に差し出す。
 翼をシンボルにした柄の中心に、碧く輝く天空の宝珠が象嵌された剣。光が当たる角度によって、刃は白銀にも青銀にも色を変える。
 鏡のように磨かれた美しい剣身に、フリアが視線を落とした。
「……強い、とても強い力を持った剣のようですね」
「わかるの?」
「はい」
 二人の顔が映った剣を、フリアは自身の白い指先でなでる。
「まるで魔を戒めるように、真っすぐで澄んだ力」
「……戒魔士じゃあるまいし」
「波導が似ているということです」
 そう言うフリアに、トーリはふぅんと生返事。
 そんなものなのかな、と思いつつトーリは剣を鞘にしまう。
 なおも考え込むように剣を凝視するフリアは、なぜだか真剣な面持ちだ。
「あ、そうだ、フリア。何か用事があったんじゃないの?」
「ああ、そうでした。朝ごはんのようなので、呼びに来たんです」
「朝ごはん!」
 弾んだ調子でトーリは聞いた。
「今日の朝ごはんは?」
「赤玉ねぎにツナ、ズッキーニをじっくりといためたものと。マッシュポテト。それから、朝、港で採れた魚介のピリ辛スープだそうです」
 聞くからにおいしそうなメニューだ。
 宿の裏手、調理場の窓から漂ってきた香りにつられ、ぐぅーと、トーリのお腹が鳴った。

 朝食の後、たくましい胸筋の店員レディから領主が住んでいる館への道順を聞き、トーリたちは今日の行動を開始した。
 開始した矢先、通りがかったアイスクリーム屋の前で、立ち止まっていた。
 クィーにいたっては、ショーケースにべったりと貼り付いている。
 何十種類という味のアイスが並んだショーケースの中は、端から端までアイスクリームの洪水。
「アイスクリームの海でおぼれたい……」
「くきゅきゅー……」
「ぜんぶの味を制覇したい……」
「くーきゅう……」
「太りますよ」
 一人と一匹の様子を後ろから眺めていたフリアが半眼で一言。
「成長期だからいいんだい!」
「朝ごはんあれだけ食べておいて、よく入りますね」
 あきれとも感心ともつかない様子でフリア。
 既に歩いているだけでじっとりと汗ばむ気温の中、最高に冷たいアイスはひと際、魅力的に映る。一層、ショーケースの中に入って涼みたい。
 レモネード、ピスタチオ、チョコレートにナッツ、ラズベリー、他エトセトラ。どれもおいしそうだ。
 朝食べた、ふわっと口の中でとろける半冷凍セミフレッドのデザートもおいしかったが、アイスクリームはまた別腹だ。
「そんな食べてばかりいたら、セト様からいただいた路銀があっという間につきてしまいますよ?」
「う……っ」
「まあ、路銀がなくなったら帰るだけですから、それはそれでわたしは構いませんけど」
「うぅ……っ」
 そっけない態度のフリア。明らかにわざとだ。
 と、店の女性がくすりと笑う気配。
「なら、ポラポラにしたらどう?」
「ポラポラ?」
 店員は、握り拳大のアイスが二つ、カップに入ったメニューを見せながら。
「一つのカップに好きな種類を半分半分。それでポラポラ」
「ってことは三人いるんだから、六種類は食べられる……?」
「くきゅ!」
「トーリさん人の話をまるで聞いてませんね!? って、待ってくださいクィーにも食べさせるつもりなのですか?」
「もっちろん。食べるよなー、クィー」
「くーきゅ」
「ほらっ」
「だめですっ。小さな体でこんな大きなアイス食べたら身体が冷えてしまうのですよっ」
「くきゅ! くきゅう!!」
「大丈夫、ではありませんっ。だめったらだめです! それに――」
 口酸っぱく叱るフリアが、クィーの首根っこを捕まえてショーケースから引きはがす。
 クィーを宙にぶらんと持ち上げ、朝ごはんをたらふく食べて膨れ上がったもふもふの白い腹を、ぐにっ、とわしづかみ。
「今だってこんなにお腹ぽんぽんにして!」
「ぐーぎゅううううううううううううううううううう!?」
「うわ、むごい」
 思わずクィーに同情。なんとなく、トーリは自分のお腹をさすっていた。
 その後、フリアとクィーの言い争いは数分続き――
 結局、二対一でフリアが負けた。
 ここエンハンブレ共和国らしく、民主主義による多数決の結果だ。

 全員アイスを片手に、今度こそ島の中央にある領主の館へ。
 先ほどまで猛烈に反対していたフリアといえば、ワッフルコーンを両手で持ちながら鼻歌混じりにアイスを食べている。
 フリアの頭の上に座るクィーも、フリアと同じポーズ、同じ笑顔でアイスを食べている。
 苦笑しながらトーリもサンオレンジのアイスを一口。しゃくっとした氷菓子の冷たさと爽やかな甘酸っぱさが口の中に広がる。
 都市の中心に向かうほど、人も店も増えていく。
 胸のポケットからパープル色のチーフをのぞかせるおしゃれな男性が、黒い燕尾服えんびふくを着た使用人と話し込んでいる。
 色鮮やかなノートや紙片が並ぶ、愉しげな文房具店の隣には、所狭しとオイル瓶やハーブが棚に置かれた店が。
 通りがかった大きなショーウィンドウの奥、リネンやコットンの服が丁寧にたたまれた店の表には、一針一針、丁寧に縫った、ぱーっと大きな花の刺繍ししゅうのクロスが飾られている。
 フリアみたいな女子が好きそうだなあ、などと思っていれば、まさしく数歩前を歩いていたフリアが、くるりと振り返ってきた。お互い、アイスは食べ終えた後。
 コットンの服を翻らせるフリアは、何やら口元に人差し指を当てている。とっておきの秘密をこっそり明かすように、彼女は言ってきた。
「ところでトーリさん。わたし、実は今日が誕生日なのですよ」
「へ?」
 目を丸くしてから、トーリは肩を跳ね上がらせた。
「――って、た、誕生日!? って、ごめん! おれ何も用意してない!」
 わたわたと肩にかけている鞄かばんやらポケットやらに手を突っ込んで、何かプレゼントできるものはないかと探す。
 しかし、フリアはトーリをなだめるようにすっと手を出すだけだ。
「いえいえ言ってなかったですから。それに、こんな旅路で、誕生日プレゼントを要求するつもりはありませんし」
 そうわざとらしく尊大に言い放ってから、ふと毛色の異なる調子で尋ねてくる。
「……ところで、トーリさん。わたしは誕生日を迎えていくつになったでしょうか?」
「きゅ?」
「え?」
 クィーと一緒になって聞き返す。
 トーリは虚空を見た。大きな翼を広げた白い雲が、青空を飛んでいる。
「そりゃ、フリアはおれと同い年なんだから十ろ――はっ」
 そこで気づいて、がく然と瞳を見開く。
「ふっふーん、気づいてしまわれたのですね?」
 得意げにフリアは鼻を鳴らすと、ずびし、とトーリに細い指を突きつけた。宣言してくる。
「つまり、トーリさんは今日からわたしより年下なのです!」
「うわあああああああウソだあああああああああ!」
 衝撃の事実に、頭を抱えながらトーリが喚く。
「というわけで、わたしの方が年上であるからには、呼び捨ては許さないのですよっ。今日からフリアさんと呼ぶのです!」
 やたらと生き生きとした調子で、まな板――もとい胸板を張ってフリアがトーリに迫る。
「さあ!」
「うっ」
 うめいて、一歩退く。同じ分だけフリアは距離をつめてきた。
「さあさあ!」
 鼻先に見える、期待でらんらんと輝いたフリアのパールグレイの瞳に、頬を引きらせたトーリの苦い顔が映る。
 しばしの硬直状態。
 その間、グレイッシュカラーでまとめた服を着こなした自転車の男性が、ちりんちりんとベルを鳴らしながら、颯爽さっそうと脇を通り過ぎていった。
 自転車がトーリの後ろに去った後。
 長い長い葛藤の末、トーリは抵抗感たっぷりの苦い顔で。
「…………ふ、………フリア……さん」
 ぽつり、と、トーリがつぶやく。
 じーん、と感動したようにフリアが目を閉じた。軽くうつむきながら、くっくっくっ、と不気味な笑いを漏らしている。大層ご満悦らしい。口元が緩み切っている。
「トーリさんに『さん』付けで呼ばれるのは気分がいいですねぇ」
「どうせたった一か月の違いだろ!? おれ来月誕生日だし!」
「あ、この際ですから、わたしもトーリと呼び捨てにしましょうか」
「すぐに同い年に戻るだろ!」
「それでも年上は年上でーすっ」
「くぅきゅー」
 とんとんと軽やかな足取りで、フリアが石畳の道を跳ね上がっていく。
 先ほど脇を通り過ぎていった自転車の男性を追い抜かし、トーリはホワイトローズの香りがする少女の背中を追った。

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