〜 二譚 〜

 トーリの体調に合わせて波止場の宿にもう一泊。
 その後、海上都市ヴェール・ド・マーレから逃げるように、トーリとフリアは波止場町から立ち去った。気持ちにしかならない旅の路銀を寄付として宿に預けて。
 今は、まだ完全に体調が回復していないトーリの体調を整えるため、一番近い村を目指して川沿いを歩いていた。
 緩やかに流れる川は広く大きい。日に輝く川のほとりには青草が萌えていた。
 トーリの前を歩くフリアは、クィーを頭に乗せて仲睦まじくじゃれ合っている。高く澄んだ空へ、鳥が歌いながら真っ直ぐ飛び立つのをクィーと眺めながら、笑い合う姿は楽しそうだ。
 その姿に、ずきりと心が痛むのを感じながら、トーリは決意して立ち止まった。
「くきゅ?」
「トーリさん?」
 先に立ち止まったことに気づいたのはクィーだった。
 続いてフリアも一緒になって肩越しに振り返ってくる。
「どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」
 心配そうに眉を下げて、フリアが近づいてくる。
 トーリは震える喉から声を絞り出した。
「あの……さ、やめようか」
「え? やめるって何を?」
「竜と契約する旅」
「え……?」
 フリアの呆けた顔。だが、トーリが発言を撤回しようとしないことを理解したらしい。
 ゆっくりと、パールグレイの瞳が見たこともない憤怒に染まる。
「なんですか……それは」
 燃えるような怒りに染まったフリアの声は、震えていた。
 フリアがこんな顔をするのは初めてだった。
 本当の本当に彼女を怒らせたのだと理解しても、遅い。
「竜と再び契約するのは無理だと言ったわたしに、それでも協力して欲しいと言ったのは誰でしたか!?」
 大気を震わせる激しい叫び。
「人の話も聞かないで、大丈夫って言ってここまで引っ張って来たのは誰でしたか!?」
「それ……は……」
 フリアは一つ一つ言葉を確かめるよう強く叫んできた。
「――わたしはあなたとなら! あなただから! 約束を結び直せると信じたのです! そう信じているあなたなら、誰かの心を信じられるあなただから!」
 その言葉にトーリははっと瞳を見開く。
「そのあなたが諦めてしまってどうするのですか――! あなたにやめようと言われてしまっては、わたしは……っ」
 勢いを失って俯くフリア。
「……フリア」
 かけるべき言葉が見当たらず、トーリは名前を小さく呼ぶ。
 すると突然、フリアが身を翻した。
「知りません! トーリなんか知りません! もう知らない! どっか行っちゃえばいいんだ!」
 やけっぱちに叫んでから彼女は走り出した。
「フリア!」
 反射的に叫び、トーリはフリアを追いかけて駆け出した。
 途中、何度か名前を呼ぶも、フリアは拒絶するように首を振るばかり。
 フリアの白銀の髪が光をまとって美しく乱れるさまを見ながら、トーリは全力で彼女を追いかける。
 やがて、決して足が速いとは言えない小柄な少女に追いつくのに、さほど時間はかからなかった。ぱし、と白く細い手首をつかむ。
「お願いだから……っ、ちょっと待ってよ……!」
 軽く上がった息を整えながら必死の思いで引き留める。
 だが、フリアはトーリの方を向こうとしない。つかまれた手首をぶんぶんと上下に激しく振りながら抵抗を繰り返す。
「トーリさんの馬鹿! ど畜生!」
「くきゅくきゅ!」
 加勢するように頭の上のクィーがジャブを繰り返している。
 トーリは場違いにも脱力したくなった。同時、逆に元気のようなものが湧き上がってくる。
「放してください!」
「いやだ、放さない」
「ヘンタイ!」
 どすっ、とトーリの心に言葉の刃が突き刺さる。
「馬鹿! すっとこどっこい! ドジ! クズ! のろま! ハゲ!」
 あらん限りの大音声でフリアが叫ぶ。
 しかし、言える悪口があっさりなくなったのか、息が切れたのかフリアは肩で息をしながら黙り込んだ。
 やがて、すん、とフリアの鼻が鳴る。ひっく、と嗚咽をかみ殺す声。
 あ、泣かせた、おれ。
 他人事のように心の中でつぶやく。
 フリアが腕を上下に振るのを止め、大人しくなったところで、トーリは苦笑交じりの困り顔でお願いする。
「泣かないで、フリア」
「泣いてません……!」
「ごめん」
 そう言って、つかんだ手首から手を放す代わりに、ぎゅっと手を握る。
 つないだ手を離さないように。彼女がどこかへ行ってしまわないように。
「ごめん、フリア」
 迷わず、逸らさず、ただ、真っ直ぐにトーリは謝る。
 フリアはトーリから顔を背けたまま、空いている手で涙をぬぐった。直後、振り返り、きっと、強気そのものでにらみ返してくる。
「それは何に対する謝罪ですか」
「きっびしー……」
 わざと明るく苦笑する。
 きっと鋭くつり上がった目と引き締められた口元こそきつく感じられるが、瞳が赤くうるんでいるせいで、正直、迫力はない。
「なんだろ。ぜんぶかな。ちゃんとはわからないけど」
「理由もわからないのに、謝ることほど失礼なことはないと思いますけど」
「……それでもやっぱりごめん、だよ」
 もう一度そう言って、フリアのパールグレイの瞳をきちんと見る。
 ようやく落ち着いたのか、フリアが聞いてきた。
「トーリさんは、ブライヤーさんの話と海上都市でのことがきっかけで、契約を結び直すのは無理だと、そう思ったのですか? 弱気になったとか、あるいは罪悪感でとか」
「違うんだ。それは、違う」
 思いがけず、出た声はしっかりしたもの。
 フリアにも伝わったのだろう。逆に困惑の色を深めたようだった。
「それならどうして、竜と契約するのをやめようなんて……」
 とっさに脳裏を横切ったのは、ブライヤーのエメラルドの刃。
 ――竜と契約した後、どうするのか考えたことがあるのか?
 トーリはその質問に答えられなかった。
 きっと自分には、もっと考えなければいけないことがあるのだろう。
「……ごめん。今はうまく説明できそうにないや」
 小さく笑う。
 そう、トーリは竜と契約することを諦めたわけではない。
 ただ、竜と契約した後のことを考えた時、自分が何も答えを用意していないことに気づいた。海上都市ヴェール・ド・マーレで、竜と助けたいと思った時と同じで。
 ――結果を受け止めるだけの覚悟もねぇくせに。
 ブライヤーの言う通りだ。
 ない。トーリには、たぶん、覚悟もなにもない。
 目の前の状況と自分の感情に従って動き、上手くいくよう漠然と願い、今まではたまたまそれが上手くいっていただけ。否――
 ――なーんも気にすることないって。こーゆーこともあるある。
 上手くいかなくても、庇って支えてくれる人がいただけ。
 本来、自分が受け止めるべき結果を、自分の代わりに受け止めてくれた人が、助けて許してくれた人がいただけ。とんだ甘えだ。
 そして、自分を信じてくれたフリアを、今も嘘で傷つけてしまった。
 どこかでフリアが笑って許してくれると、優しく励ましてくれると思っていたのなら、これもとんだ甘えだ。
 今はまだ、答えはわからない。
 竜と契約した後のことも、契約できなかった時のことも、もしかしたら、本当は自分がどうしたいのかも。
 未熟で何も知らない、考えの浅いトーリに、答えはわからない。
 でも、わからないとしても、考えることはできる。
 だから――
「ちゃんと、自分の中で説明できるぐらい答えがまとまったら、その時は話すから。だから……」
 トーリは、ぱんっ、と顔の前で両手を打ち合わせた。
「許してくださいフリア!」
 トーリの急変した態度に、フリアがぱちくりと目をしばたたかせる。
 フリアは半眼でトーリをじぃと見た。クィーも同じ顔をしている。
「……反省しましたか、トーリさん」
「しました!」
 低姿勢は変えず、即座に応答。
 フリアは両腕を組んで仁王立ちすると、わざとらしく眉をきりっと吊り上げ、尊大に言い放った。
「もうそんなちっちゃいこと言いませんか」
「言いません!」
「ビッグになると誓いますか」
「誓います!」
「じゃあ、しょうがないので許してあげます」
 ころりと一転。あっさりとフリアが笑う。
 おどけたやり取りがおかしくて、トーリは笑みをこぼした。つられたようにフリアも小さく口元を緩ませている。
 すると、フリアの頭の上に乗っていたクィーが、ぱたぱたと翼を動かしてトーリの肩に移動した。
「クィー……」
「くぅきゅ」
 トーリの頬にクィーが顔を押し付けてくる。ふかふかとした毛の柔らかさに、トーリは目を細めた。
「ありがと、クィー」
 ごろごろと喉を鳴らすクィーの喉元をなでてやる。
 ふいに、吹いた風に合わせて、さあっと緑の草の波が揺れた。
 丈の短い草が一面に生え、風にそよぐ中、フリアが口を開く。
「……トーリさん、一度、〈天の祭壇〉へ行きませんか?」
「〈天の祭壇〉? でも、契約するにも竜がいないよ?」
〈天の祭壇〉。契約の地。
 代々、竜と〈竜の民〉の契約はそこで行われてきた。大地を流れる強い力の助けを借りて、二種族の関係をより強固にするために。
 別名、万物の力の源、〈オルフィレウスの泉〉の水が湧き出る地――輝脈(きみゃく)融点。
「手がかりがあるかもしれないじゃないですか。途中、竜の情報があったらそちらを優先してもいいですし」
「わかった」
 二つ返事で了承する。
 フリアが虚をつかれたように目を丸くするも、トーリの手に自らの手を重ね合わせた。
 そうして二人はもう一度、手をつなぎ合わせる。
 途切れた糸を、再び結び直すように。

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