〜 第一楽章 〜

 翌日、ブランシュはベッドの上で手鏡を手にしていた。
 磨かれた鏡には自分の顔が映っていた。黄金色の長い髪に翡翠色の瞳の少女が、顔を横に向けている。
 鏡に映る白い頬に赤みはない。昨日、フィディールに叩かれた頬は、すっかり痛みも腫れも引いていた。イリーナがくれた湿布のおかげだ。

「よしっ」

 声に出して、意気込みを一つ。
 既に太陽は空の真ん中を過ぎ、イリーナとフィディールは帰った後。元気は満タン。午後はたっぷり時間があり、見上げるだけの空は今日も清々しい。絶好の脱走日和だ。
 ブランシュは長い防寒具を下に着込むと、温かい毛織の外套コートを羽織った。毛糸のマフラーを首に巻きつけ、靴紐をきれいに蝶々結びにして立ち上がり──扉に手をかけ、いざ出発。
 が、押しても押しても扉が開く気配は、ない。

「……?」

 試しに扉をゆすってみると、がちゃがちゃと鎖が絡む金属質な音が聞こえてきた。
 鍵がかけられている。

「えええーっ!?」

 もう一度、強めに扉を押したり引いたりしてみるも、扉はびくともしない。

「そんなぁ」

 情けなくうめいた後、どうしよう、とブランシュは部屋の中をぐるぐるした。
 と、階段を上がってくる足音が聞こえてきて立ち止まる。細いヒールの音ではない。とすれば、やってきたのはフィディールか。なんの用事かは知らないが。
 そこで、ぴんとブランシュは閃いた。桜色の唇の端をにんまりと持ち上げ、忍び足で扉の左脇の壁へ移動する。
 そうして、扉が開かれるまで、待つような時間もなかった。

「……ブランシュ?」

 鍵が外される物々しい音の後、案の定、中に入ってきたのはフィディールだった。
 扉に手をかけたまま、空っぽの寝台を見渡し、ブランシュがいないのを見てとるや、右手のバスルームへ向かう。開け放たれた扉の後ろにブランシュが隠れていたことに気付いていないらしい。
 してやったり、とブランシュは一人ほくそ笑んだ。フィディールが隣の部屋に入ったのを確認した後、足音を殺して、鍵が開けっ放しの扉へ忍び寄る。
 こっそり、そおっと、気づかれないうちに──などと、都合のいいことを考えていたら。

「やられた。くそ……一体どうやっ、て──」

 思ったより早く、フィディールはバスルームから戻って来た。
 苦虫でも噛み潰した顔で、もう一度寝台のある部屋を見渡し。

「あ」
「え?」

 ばっちりと。
 今まさに扉の外に出ようとしていたブランシュと目線が合う。
 ぽかんと、フィディールは意表をつかれた顔で立っていた。口と目を小さく開いた珍しい表情に、なんとも新鮮な気分になる。
 が、それもつかの間のこと。
 フィディールの機嫌がみるみる急降下。整った眉がつり上がる。

 まずい。

 何か言われる前に、大慌てでブランシュは部屋の外に逃げ出した。扉を閉め、扉枠の丁番とドアハンドルに引っかかっていた錠を使って外から鍵をかける。

「……ッ! 開けろブランシュ!」
「いやです!」

 フィディールが何度か扉を乱暴に開けようとする。だが、開かないと見てとるや、今度は扉を叩いてきた。滑らかな木肌の扉から強く重たい音が響く。

「いいから開けろ!」
「ちょっと外出てくるだけですから!」
「そんな言い訳が通用するか! だったらこの扉を開けろ!」
「いやですっ!」

 明るくすぱっと歯切れよく言い切る。
 扉を開けたら部屋に連れ戻されるに決まっている。少しぐらい外に出してもらってもいいではないか。どうせ後で戻ってくるのだし。内心で抗議しながらブランシュは落ちていた鎖を適当に錠に絡めた。これでよし。

「ミオソティスという花を知っていますか──」

 楽しくなって歌い出す。

「こらブランシュ! 人の話を聞いているのか!?」

 なおも扉を叩きつけるうるさい音を無視して、ブランシュはとんとんと軽快なリズムで螺旋階段を下りていった。

「ブランシュ──!」

 白き塔の最上階に、その日一番となるフィディールの怒りの声が響き渡った。

 急に騒がしくなったような気がして、エルスはゆっくりと目を開いた。
 黒い髪に蒼空色の瞳の少年は、目の前、高くそびえ立つ白い塔を見上げた。騒ぎが発生していると思しき場所を探すつもりで。
 まばゆいばかりの冬の太陽と、澄んだ蒼空が空の彼方まで続いている。空へ一直線に伸びる塔のてっぺんは、ここから見えない。
 ふいに、身を切る寒風が吹き抜けた。外套コートの上から寒さが突き刺さる。エルスは冷気から身を守るようマフラーを寄せると、心のなかで声を発した。

(……なんかあったのか?)
『誰かが逃げ出したみたいだね』

 エルスの明確な心の声に、脳内でやんちゃな子供の声が返る。
 視線を横に動かせば、少年らしい細い肩の上に、ふさふさとした金色の小動物が座っている。長い狐のような尻尾をくるんと丸め、耳を舐める姿は愛玩動物そのもの。

(誰かって誰が?)
『たぶん、女の子かな。金髪に長い髪の毛だっていうから』
(女の子? こんなところに?)

 こんなところ。そう称したあたりを見渡した。地面と平行に突き出た白いバルコニーが、塔の壁面をぐるりと囲っている。塔の下は、雲海の幻覚で隠され何も見えず、あたりに人は誰もいない。
 むしろ、人どころか、何もない。亡い。無い。ない。あるのは、蒼空に聳え立つ真白い塔のみ。
 だが、先の言葉はこんな辺鄙な高所に人が、という意味ではない。が問題だった。一般人はおろか、帝都カレヴァラでもごく一部の人間しか立ち入ることを許可されていない白樹の塔フレーヌの最上層。
 そこにエルスは何食わぬ顔つきでいた。バルコニーの端に張り巡らされていた、小さな柱が列になったフェンス。エルスはそこに背中を預け、白い塔を、その先の蒼空を見上げている。

『それ言ったら、エルスだってこんなところに男の子が、だよ』

 フェイが知らん顔で返してくる。

(それはそうなんだが、俺は目的があるし)
『なら、その女の子だって目的があってここにいるかもしれないじゃん』
(それもそうか)
『そうそう』

 あっさりと話が打ち切られる。
 塔の外壁には、石を四角く繰り抜いた窓が等間隔で並んでいた。角度と外壁の厚さの問題で、塔の内部はよく見えない。また、塔の内部にいる人間も、エルスに気づくことはないだろう。わざわざ扉を開いて首を出して真下でも見ようとしない限り。
 一呼吸置いて、エルスは言い直した。

(……まあ、いい予感はあんまりしないけどな)
『同感』

 不安めいた内容に反して二人の調子に深刻さはない。心配するでも不穏に思うでもなく、フェイが聞いてくる。

『それで、どうするの?』
(どうしようか)

 淡白な返事。考える方に気がいき、返事が疎かになる。
 どうすると聞かれたところで、さっさと逃げるというのが安全だというのはわかっている。だが、あいにくとまだは発見できていない。
 フェイに協力してもらいながら、深夜に国境を超え、草木が死に絶えた大地を抜け、見つかったら即刻殺されてもおかしくない帝都カレヴァラの最上層までやってきたのが数日前。このまま手ぶらで帰る、というのも味気のない成果だ。

『見つかったらまずいんだから、成果に味気ないとか言ってる場合じゃないと思うけどね』
(人の頭のなかを勝手に覗くな)
『いいじゃん。減るもんじゃないし』
(それもそうか)
『そうそう』

 一人と一匹は概ねこのような関係だった。フェイと会話をするため、エルスは自身の記憶や意識を擬似的に共有している。つまり、今更という感じではあった。

『で、どうするの?』
(……その子がここにいるのはなんでなんだろうな)

 判断を保留にし、逃走中の少女に思いを馳せる。

(ここは研究施設があるわけじゃないし、理由がぱっと思い浮かばない)
『エルスがすーぐ考えそうな何かの研究の被験者とは限らないんじゃない? 娯楽か余興って線もあるわけだし』
(娯楽か余興)
『エルスが気になってる噂の預言者さんだって、帝都カレヴァラの長老にっていうし? 今逃げ出した女の子も、エルスから言わせるとそういうの方に可愛がってもらってるかもしれないよ。それこそ、こんなところだし?』

 最後の部分を強調してくる。人間嫌いの厭世じみたフェイの声は、ひどく人間じみている。
 エルスは半眼になった。

(預言者を」長老とやらは、謀殺されたらしいがな)
『不穏だねぇ……。古都トレーネとの議員とのあれそれ含めて』
(おまけに大陸崩落の話もあるしな)

 かつて、偉大な指導者と貴族たちによって、三大国家の一つとなった帝都カレヴァラ。
 時の経過とともに、貴族は財産によって名望と権力を維持しようと躍起になり、落ちぶれた。
 金に銀、宝石や真珠、鍛冶場にパン焼き窯、農地に屋敷に城。数々の財産は貴族制度の廃止とともに市民に分配された。
 二百年ほど前に古い貴族の家柄が没落した後、地方自治ごとに選出された長老と呼ばれる代表者が各地を取りまとめているらしいが、長老も長老で市民階級の間で権威を求めるようになり、今も汚職が後を絶たないらしい。
 現在、指導者の立場にある執政官ディディウスも、冴えた統治者とは呼べない。
 三大国家の残りの二つ、エルスが所属する古都トレーネや王都グラ・ソノルもといい、世の治世がままらないのはどこも似たようなものらしい。
 もっとも、ただの十六歳の少年に過ぎないエルスとしては、さしたる感慨も感傷もなかったが。
 あえてあげるとすれば。

(まあ、そういうめんどくさい問題には首を突っ込まないで目的のものだけ回収したいとこだな)
『古都トレーネの法術士が、帝都カレヴァラの立入禁止区域に無断でいる時点でもう大問題だよ。首突っ込むどころか自分で問題生成してるじゃん』
(そうとも言う)
『義理のお兄さんあたりにバレたら顔真っ青だね。びっくりして倒れちゃうんじゃないかな。可哀想に』
「だから何も言わずに来たんだろうが」
『気遣いの仕方が根本的に間違ってるよ、エルス』
「知ってる」

 会話終了。蒼空を鳥は羽ばたかない。

(とにかく)

 エルスは新しく息を吸った。冴え冴えとした冬の空気を肺に取り込む。

(できればその逃げてる女の子とは出会いたくない。面倒なことになりそうだからな。その子の正体探って回避ルート検索しといてくれ)
『はあい』

 呑気な声の後、美しいエメラルドグリーン色の瞳が煌々と輝く。異質な輝きを放つフェイの瞳を横目で見やりながらしばし待つ。

『でもさ、万が一その子が、エルスが探してるものだったらどうするの?』
(会ってから考える)
『行き当たりばったりじゃん』

 聞き流す。
 どのみち会って考えたところで、最終的にエルスのやることには変わりはないのだが。

「フレーヌ、か」

 声に出す。空に伸びる白い塔を見上げながら。
 オスティナート大陸の南には、天へ昂る一本の塔が聳え立つ。
 人々は、白い大樹のような塔をフレーヌと呼んだ。世界を現す大樹を象徴する樹の名。

『ほんと、こんなところにいる女の子なんて何者なんだろうね』
(さてな)
『よくある囚われのお姫様、とか?』
(むしろ俺は──)

 監獄のような塔をすらりと見。

(……罪人か囚人、とかかな)

 呟いた瞬間。

 ──ひかりを、見た。

 視界の奥、きらりと白い何かが光ったような気がして、エルスは目を凝らす。直後、見開かれた。
 空の向こう側。光に照らされた蒼空の中心。
 まるで光そのもののような少女が、ゆらりと羽根のように衣を羽ばたかせながら、こちらに落ちてくるのが見えた。

 この状況をどうやって突破すべきか。
 フィディールを部屋に閉じ込めた後、意気揚々と階段を下りてきたブランシュは城壁のような白い壁に背中を貼り付けていた。
 そおっと、昇降機のある部屋の入口から中を見やる。暗がりの先には、ガラス扉の上、時計針式の計器が埋め込まれた昇降機が。
 そして、昇降機の前には、二十歳ぐらいの栗色の髪の青年オズウェルが。
 のこのこと正面から出ていったら捕まるのが関の山。他にここを切り抜けられる方法はないか、ブランシュはあたりを見渡した。
 降りてきた螺旋階段以外、周囲には何も見当たらない。あるのは、石壁に四角にくり抜いた窓ぐらい──窓。
 思いつき、ものは試し、とブランシュは手近な石の窓によじ登った。大人が一人通れる大きさの、奥行きのある窓を床に這いつくばりながら進んでいく。
 首を窓の外、外壁の外に出せば、うなり声のような風が吹き上げてくる。
 濃く厚い、不透明な白い雲は、塔の遥か下。
 意識が霞むような高さに、ごくり、と、我知らず喉が鳴る。
 体温が急激に下がるのを感じながら、ブランシュは外壁を観察した。ちょうど足場になりそうな突起物が塔の裏側に続いてるのを見つける。
 ここでぐずぐずしている時間もない。ブランシュはいったん螺旋階段へ戻ると、再び、窓に登り、螺旋階段を正面に、今度は後ろ向きの格好で匍匐後進。窓から足を下ろし、細い突起物につま先を置いて足場にする。
 ブランシュは緩やかにカーブする外壁に手を当て、慎重に進んでいった。ゆっくり、一歩一歩、確実に。
 と、突然、足元から吹き上げた強風が、スカートと金色の髪を煽る。

「わわ……っ」

 慌てて首を振り、生き物のような動きでまとわりつくスカートと髪を払おうとする。
 そのはずみでバランスを崩しかけ、反射的に塔の外壁にしがみついた。

「──っ!」

 一瞬、ほんの一瞬、足場を失った時に感じた浮遊感に、ぞくりとした悪寒が背筋を走り抜ける。悲鳴を上げる暇もない。
 間一髪、なんとか落下を免れるも、心臓は恐ろしいほどの速さで早鐘を打つばかり。
 すると、足を踏み外したはずみで落ちた石壁のかけらが足元に落下していく。
 かけらは気が遠くなるほど下に見えるミルク色の雲に触れると、木端微塵になって消えた。
 さぁ、とブランシュの顔が青を通り越して白くなった。足が付け根からすくみ、冷や汗が溢れ出す。
 もしかして、これ、落ちたら私もばらばらかも。頭に浮かんだ怖い考えを追い払うつもりで、ブランシュは首をふるふると横に振った。

 とにかく落ちなければいいのだ。そう落ちなければ──

 そう自分に言い聞かせ、再び足を動かした時のことだった。
 がくん、と。

「え?」

 とっさに、足場の感覚が消え失せる。足を踏み外す。

「うそ──」

 悲鳴とともに、ブランシュは塔の下へと落下していった。

「う──ひゃあぁぁぁぁぁぁおぉぉぉぉぉぉぉぉうっ!?」

 お腹の辺りが宙に漂うような奇妙な浮遊感に、ブランシュは悲鳴を上げていた。
 その間、落下は止まらない。文字通り、頭から落下していく。軽いパニックに襲われながら、
 かろうじて気絶せず保たれている意識が、塔の外壁から突き出た白いバルコニーを映し出す。
 引き寄せられるようにそこへ落ちていくのを認めながら、ぞっと背筋が寒くなる。ぶつかったときの痛みを想像し、ぐっと全身に力を入れ、訪れる衝撃に覚悟を決め。
 音もなく、疾風にも似た素早い影が飛んできた。
 影と交差した瞬間、重力とは全く異なる強い力に引っ張られる。身体が横に伸びるような、今までに体験したことのない感覚。
 突然のことに訳がわからずにいれば、誰かに身体を力強く抱きしめられる感触があった。恐らく、影の主だろう。
 自分の背中に回された確かな腕の感触。しっかりと自分を支えてくれる誰かに、ブランシュは無我夢中でしがみついた。

 ……どれほどそうしていただろうか。

 ふと、落下の感覚が消え去っていることに気づき、ブランシュはぎゅっと閉じていた目を恐る恐る開いた。半ば強引に抱き付いていた相手から身体をそっと剥がす。

「ご、ごめんなさい、私──」

 言いかけ、相手の顔を見たところで呼吸が止まった。

 ──鳥の飛べない蒼。

 蒼い、青い、あおい、透き通るような蒼い瞳に、感情も心も意識すらも吸い込まれる。

「君は……」

 助けてくれた黒髪の少年が、尋ねるような目で見ている。
 だが、ブランシュは魅入られたように少年を見つめるだけだった。正確にはその瞳を。
 しばらくの間、少年は無反応だった。しゃがんだ体勢のままブランシュを横抱きにし、無言で見つめ合う。
 過ぎること、一分、二分、三分……

「で、そろそろ離れてくれると、俺としてはとても嬉しいんだが」

 淡泊な声。
 はっ、と我に返ったブランシュは自らの体勢を見直した。自分を横抱きにしている少年の腕から急いで降りる。

「あ、ごめんなさいっ!」
「いや、別に謝らなくてもいいんだが」

 さっぱり言い捨て、すっと立ち上がる少年。
 こう改めて見ると、年齢はブランシュとさほど変わらないようだった。外套コートの裾を払う少年の横顔には、まだ幼さめいたものが残っている。静かな物言いから大人びた印象を受けるが、もしかしたら、ブランシュより一つか二つ年下かもしれない。
 初めて見た少年というものを物珍しく見ながら、ブランシュは頭を下げた。

「ごめんなさい。思いっきりしがみついちゃって」
「それは大丈夫なんだが。っていうか、君は……」

 言いかけた少年の口が止まる。
 ブランシュが少年の顔をじぃっと見つめていることに気づいたらしい。
 と。

「わっ」

 額に軽い衝撃。思わず目を瞑り、手で押さえる。
 何事かと思って目を見張れば、手刀を作る少年の姿があった。どうやら、それで軽く叩かれたらしい。

「な、何するんですかっ」
「いや、さっきからずっと見つめてくるから、頭でも打ったのかと」
「だってすごくきれいな瞳だなあって」
「よく言われる」
「そう、ですか」

 褒めたつもりがそっけなく返されてしまった。しゅん、とブランシュは萎れる。
 ふと、今度は少年がブランシュを見つめながら思案げに腕組みした。

「……長い金髪の女の子、か」
「え」
「なんかもう出会う前に戻ってやり直したいな」
「へ?」
「無理とか言うなフェイ」
「フェイ?」
「違った。今のはこっちの話。じゃあ、俺はこれで」
「えっ?」

 すたすたと早足で立ち去る少年をブランシュは呼び止めた。

「ちょ、ちょっと、あの待ってください!」
「なんか俺に用でもあるのか?」

 あからさまな反応に、少し意気をくじかれる。

「え、と…。用事っていうか……。あ! そうでした! 助けてくれてありがとうございました!」
「どういたしまして。それではさようなら」
「早い!?」

 下げた頭を上げる頃には、少年は信じられない速度で既にブランシュと距離を取っていた。
 ブランシュは慌てて少年を追いかけた。バルコニーの縁をすたすたと歩く少年は思いの外早い。こちらは小走りだというのに追いつけない。

「なん、で、そんな急いで……っ」
「俺と君は出会わなかった」
「え?」

 少年は、後ろを振り向きもせず淡々と言ってきた。

「俺は君を助けなかったし、君は俺を見なかった。そういうことで」

 やっぱり変な人だ!ブランシュはそう断定するといよいよ走り出した。
 今まで出会った人は、ブランシュを部屋に連れ戻そうとしたのに、この少年は違うらしい。よく見れば格好もあの三人と違う。裏地に毛皮が縫われた紺の外套コートの下は黒い軍服ではない。冬仕様の厚い脚衣と紐を編み上げる革靴。

「あの、っ、あなたは一体……」

 くんと、少年の外套コートの裾を引っ張った瞬間。

 ──身体の中に凄まじい音が響いた。

「あ、あ、あああああぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 がくんと膝をつき、ブランシュはその場に崩れ落ちた。絶叫がほとばしる。
 そこで初めて少年の目に興味らしきものが浮かぶのを見た。振り返り、座り込んだブランシュを見下ろしてくる。
 しかしブランシュはそれどころではなかった。耳障りな甲高いノイズが断続的に響き、鼓膜を、肉体を、血を、骨を、震わせ、粉々に砕こうとする。身体を内側からバラバラにされるような激痛が走り、意識が朦朧としてくる。
 少年はブランシュの体内に響く音を全く感じていないのか、平然と立っている。

「あ……あ、ぁ…っ」

 全身の感覚が消失し、身体が前のめりに倒れかけたときだった。
 ぱしっ、と手首をつかまれた。とたん、音が鳴り止む。
 糸が切れたように力を失ったブランシュの身体を、少年が抱きとめる。線の細い、だがまだ未孵化な少年の身体はしなやかで揺るぎない。
 ブランシュは助けられた心地で、少年の顔をどこか定まらない意識で見つめた。

「君は……」

 呟いた少年は蒼空色の瞳を眇めていた。少年のまとう雰囲気が、剣の切っ先にも似た人を寄せ付けない鋭利なものに変化する。
 ざわり、と風がうごめいた。風もないのに空気が揺れる。

「……君は〈不協和音〉か?」

 鈴の音が。
 しゃんと透き通るような不思議な鈴の音が。
 名残惜しそうな音を残して、ブランシュの身体全体に広がった。

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