〜 一譚 〜

 少女と出会って二日後。すなわち旅立ちの日。
 いってらっしゃい、と何人もの人たちに見送られ、トーリたちは明け方に、〈竜の里〉を出発することになった。
 場所は、サビついた看板が目印のタヌキ交差点。

「気をつけてね、トーリ君」
「はい。ありがとうございます、セトさん」
「何かあったら、戻ってきて大丈夫ですから」
「……いいの?」

 うっすらと、トーリが金色にも見えるはちみつ色の瞳を見開いた。
 セトがヘーゼル色の瞳をやわらかく細める。

「もちろん。だって、ここは君の故郷ですから」
「セトさん……」

 自然とうれしさで口元がほころびかけ。
 はたと気づき、トーリは真顔で聞いていた。

「その場合、まだ期限が残ってたら、もう一回旅出てもいいの?」
「それはだめです」
「ケチ」
「それに、そう簡単に根を上げて戻ってくるつもりはないんでしょう?」
「そりゃもちろん」

 にっ、とトーリが口の端を持ち上げる。
 セトが、しかたのない子ですね、と苦笑した後。

「でも、何かあって危ないと思ったら、そういう意地とかプライドは全て捨てて、自分の命を優先させてくださいね」
「……それは」
「君の命は、君だけのものじゃありませんから」

 うながすように、セトがついと視線で自身の肩越しを見やった。
 つられてトーリはセトの後ろをのぞき見た。
 きれいな緑色をしたブドウ畑の間、息を切らしながらやって来たのは、トーリと同じ赤毛を束ねたエプロン姿の母親だった。

「トーリ……っ」
「母さん……」

 何を言おう。何を言えばいいのだろう。
 そう迷っている間に、トーリの目の前までやってきた母親が、すぅー、と息を大きく吸った。次の瞬間。

「ハンカチは持ったの? お財布は忘れてないでしょうね。セトさまからお借りしたメダリオンは何があっても肌身離さず、シャワーの時も首から下げておくのよ。落としちゃ、ぜええええええったいダメよ。それから、一人じゃないんだから危険なことには首を突っ込まないこと。くれぐれもその方には粗相そそうのないように。それからそれから——」

 まるで友だちの家に遊びに行く時のように、否、それ以上の勢いで、母親が一気にまくし立ててくる。

「もう子供じゃないんだからさ……」

 脱力ともあきれともつかない心境で言い返すも、母親は聞いた風もない。

「いくつになっても、あんたはあたしの子どもだってことには変わりないんですからね。あんたといったら——」

 まずい。これは、お説教から昔話へ、昔話から恥ずかしい話へ突入する流れだ。
 トーリは、ばたばたと両手を振ると、母親を止めにかかった。

「か、母さん! おしまい! この話おしまい!」
「いーえ、次お説教できるのがいつになるかわかりませんからね。今日はまとめて――」
「終ー了ー!」
「あっ、待ちなさいトーリ! まだ話の途中よ!?」
「何にも聞こえませーん!」

 しんみりとした別れ際のあいさつとはほど遠い、にぎやかで和やかな笑い声が〈竜の里〉のタヌキ交差点に響く。
 いつも通り口うるさい母親から、そそくさと逃げるように、トーリはその場をあとにした。
 そんなトーリを追うように、少女が歩き出す。

「フリアレアさん」

 少女の名前なのだろう。セトに呼び止められた少女がふと振り返る。

「トーリくんのこと、よろしくお願いします」

 セトの隣に立つ、トーリの母親が深々と頭を下げている。
 少女は応えるように丁寧に頭を下げ、ぱたぱたと小走りに駆け出した。

 新鮮な森の息吹を胸いっぱいに吸い込みながら、トーリは羽を伸ばすような気分で身体を伸ばした。
 空は、青い絵の具を水に溶かしたような淡い青。
 まだ地平線から昇って間もない、白っぽい金色の太陽に照らされ、トーリの胸元のメダリオンが、うす桃色にも似たオールドローズのきらめきを放つ。

「……っと、しまっとかないと、これ」

 トーリの首にかけられているのは、セトから預かったメダリオンだ。竜のシンボルが描かれた、〈竜の里〉の一族であることの象徴。
 普段は隠しておくよう言いつけられたそれを、トーリは衣服の下に大事にしまった。ひんやりとした銅のメダリオンが、あっという間にトーリの体温を吸収し、肌になじむ。
 トーリはくるりと振り返った。背後からついてくる少女へと。
 髪も服も雪のように白い少女が、パールグレイの瞳を不思議そうに瞬かせる。その手に荷物はなく、手ぶらそのもの。
 戒魔士の中には、異空間を操る者がいるというのは聞いたことがあるが、まさか目の前の少女がそうだとは思いもしなかった。異空間に荷物を収納できるおかげで、普段は剣と財布や地図やコンパスといった必要最小限の荷物だけで、身軽に動き回ることができる。
 それはさておき、トーリは無表情の少女ににこやかに笑いかけた。

「自己紹介、まだだったよね。おれの名前はトーリ・ローアル。君は?」
「……フリア。フリアレア・フラル。この子はクィー」
「くぅきゅ」

 フリアのふわりとした白い髪の毛の中から、クィーの鳴き声だけが聞こえてくる。

「よろしく、フリア、クィー」
「……よろしくお願いします」

 そうあいさつを交わし。

 ——この自己紹介にも満たない会話のあと、ろくな会話もないまま二時間が経過していた。

 確かに、フリア本人が過不足ない実力を持っていると言うように、あるいはセトが優秀と太鼓判を押すように、フリアの魔法の力は並みの戒魔士を凌駕りょうがしている。
 突然現れて襲いかかられたら、大の大人でもひるむような鹿を、魔法の一撃で昏倒こんとうさせられるぐらいには。あれには驚いた。
 涼しい顔でクマを倒した少女といえば、今は野生のプラムの木の茂みの前に立っている。トーリと距離があるからか、クィーはフリアの肩に乗っていた。
 細い枝はプラムの重みで垂れ下がっていた。
 そのうちの一本に、クィーが背中の翼を広げて飛び移った。そのまま枝先にぶら下がるように、そっとひとゆすり。
 しなるように枝が大きく揺れる。
 が、プラムの実は落ちてこない。
 早くもしびれを切らしたらしい。傷一つない、つやつやとワイン色に光るプラムを、クィーが前足で、べし、とたたき落とした。
 ころころと地面に転がったプラムにじゃれつくように、クィーが地面を転がる。

「きゅっ」
「こら、クィー。お行儀が悪いですよ?」
「くきゅう……」

 クィーが元より垂れている耳をますます垂れさせる。
 しかないですね、とフリアが手をプラムの木に掲げた。音もなく、プラムの実が枝から離れる。

「はい、どうぞ、クィー」
「くぅきゅ」

 みずみずしい黄色の果肉に、クィーが夢中でかぶりつく。
 そんな一人と一匹のやり取りを眺めながら、トーリは今回の旅について改めて考えていた。

 半年、期間限定の旅。
 路銀が尽きてもおしまい。
 フリアが無理だと思ってもおしまい。

 彼女には、〈竜の里〉に強制的に転送するための法石がセトから手渡されている。有事の際はフリアの判断でいつでも使えることになっている。
 まさしくフリアの言う通り、彼女の機嫌を損ねないようにしなければ旅は終わってしまう。
 つまり、フリアと仲良くなるのが、目下最優先任務だ。
 任務遂行のため、トーリはフリアに近づいた。クィーがさっと隠れ、フリアが顔から感情を消す。
 歩き出したフリアの隣に並び、トーリは再びコンタクトを試みる。

「そこのプラム、小さいけどおいしいよね」
「そうですね」
「クィーってさ、おれが近づくと隠れちゃうけど、人見知りってやつなのかな……?」
「そうですね」
「フリアとは仲いいみたいだけど、小さい頃からの友だちとか?」
「そうですね」
「……あのさ」
「そうですね」
「…………………ところでおれ、アップルパイだけは鼻の穴から食べるんだ」

 ばっちり聞いていたらしい。なぜかタイミング悪く顔を出していたクィーと一緒に、ものすごい目で見られた。
 そのまま、すすす、と不審者に対してするように、距離を置かれる。
 トーリの繊細な心は、早くもダメージを食らっていた。トーリは距離を置かれたフリアを盗み見た。正しくは、フリアの髪の中に隠れているクィーを。
 相変わらず、クィーはフリアの白亜の髪の中に隠れたまま出てこない。
 先ほど、プラムを食べていた時といい、トーリがフリアから離れている時にこっそり表に出ているのは目撃しているが、トーリと視線が合うと、ぱっと髪の中に潜りこんでしまう。動物好きのトーリとしては、なかなかにこたえる反応だ。
 先ほどのフリアの言葉を信じるなら、人見知りらしい。慰めにも何にもならなかったが。
 それはともかく、このぎすぎすした空気をどうにかしたい。
 早くも前途多難を予感させる雲行きの怪しさに耐え切れず、トーリはフリアに話しかけていた。コミュニケーションは平和への第一歩。

「ね、フリアは竜を見たことってある? どこにいるとか知ってる?」
「りゅう」

 端的に一言。

「古より大気を統べ、天候を支配する天空の覇者」

 お手本のような定義をつらつらと並べた後、フリアは質問には答えず別のこと言い出した。

「探すだけ無駄ですよ。まず見つかりっこありません」

 決めつけるような口ぶりに、トーリはむっとなって言い返していた。

「無駄じゃない。だっておれは小さい頃、見た」

 ぴく、と少女の形のいい眉が動く。
 初めて出会った時と同じ、何かを探るような目でトーリを見てから、フリアはわざとらしくあきれたため息をついた。

「寝ぼけてたんですよ」
「んなあ……」

 みつきかけて、止まる。
 このままではフリアのペースに乗せられるままだと気づき、努めて冷静にトーリは返した。ただし、ほおが引きつるのは止められなかったが。

「おれ、寝起きはいい方だよ……?」
「つまり、見間違いでも夢でもなんでもない、と言いたいのですか?」
「もちろん」
「——白昼夢を見るような危ない方と旅とは、この先が心底思いやられますね」

 もう〈竜の里〉に強制転送されてもいいかな。
 うっかり鎌首をもたげた考えをコンマ一秒で追いはらい、トーリは内心で首を横に振る。いちいちピンポイントで人の神経を逆なでしてくる少女だ。
 見れば、フリアはそ知らぬ顔で、つーんとそっぽを向いている。どうあっても、トーリとまともに取りあうつもりもなければ、歩み寄るつもりもないらしい。

「いやはや初めてお会いした時から、夢見がちなお姫様のような空想を抱いていらっしゃるお馬鹿さ――もとい、純粋な心を持っていらっしゃる方だと思っていましたが、危ない発言がこうも目立っては不安と心配はつきないというもの。そうは思いません? クィー」
「くきゅ?」

 落ち着け、落ち着け自分。
 ぷるぷると肩を震わせながら、そう呪文のように唱え、心の中で何度か深呼吸。
 旅に出られるのだ。この程度のことでかっかしていては本末転倒——

「おまけに身体ばかり大きくなって、中身は五歳児のような悪さばかりするお子様みたいな方でもありそうですからね。はあ……、気苦労のあまり、旅の途中でハゲにでもなりそうです。あー、なんてかわいそーなわたし」

 ——でも、あと一言きたら、もうどうでもいいかな、などと思う。
 すると、こちらの気を知ってか知らずか、今までとは毛色の違う調子でつぶやいてみせた。

「……それに、見つけたとしても、契約は難しいでしょうね」

 フリアが気にしたように空を見上げる。空には、厚みを帯びた灰色の雲がかかり始めていた。
 即座に反論してこないトーリに思うところがあったらしい。フリアが試すようにちらりとトーリを見た。

「……〈竜の民〉なんですから、知らないわけではないのでしょう?」

 すっかりトーリの頭は冷えていた。
 人々が竜の力を巡って争いを始めた話は、恐らくフリアよりトーリの方が詳しいだろう。
 竜を崇め、その力をよりどころにした竜神信仰者たちがはびこり、ことあろうか〈竜の民〉がその争いを先導していたこともあったという。争いを嫌う竜の声を直に聞き、その声を人々に伝える役目を持った〈竜の民〉が。
 無益な争いに辟易へきえきした竜が、〈竜の民〉との契約を一時的に打ち切ることも珍しくなかった。
 竜と契約していなければ、〈竜の民〉は天候を操ることができない。
 そして、〈竜の民〉が竜と契約を結び直すたび、人々は同じ過ちを繰り返し、やがて、竜は大陸から姿を消した。
 飽きるほど聞かされた話だ。ありきたりでつまらないと思うぐらいには。

「そんな風にして竜を裏切り続けてきた人間と、もう一度竜が契約を結んでくれるとは思えません。普通に考えて」
「それでも、約束は結び直せるっておれは信じてる」
「……平行線ですね。これ以上はやめましょう」

 話しあうだけ泥沼化すると思ったらしい。フリアが早々に話を切り上げてくる。
 無言で歩くことしばらく。
 ふと、トーリはつぶやいた。

「……でも、竜が人と契約を結ばないっていうのはわからなくもないけど、なんでいなくなっちゃんだろ」
「……どういう意味ですか」

 フリアが足を止めた。初めてトーリの言うことに興味を持った風に。
 単なるひとりごとのつもりだったが、トーリは会話の糸口を探す意味合いもかねて、話を続ける。

「姿を消す必要はないんじゃないのかなっていう話」

 八百年前以上昔、オルドヌング王朝が栄光を極めていた時代から、あるいはそれ以前から、大空を飛ぶ竜の姿は史料で確認されている。

「そりゃ、〈竜の民〉が竜と契約するために大陸を旅してた頃なら話は別だよ? あの頃はいろいろ酷かったらしいし。竜が人の前から姿を消したくなるのもわかる。でも今は誰も——」

 誰もそんなことをする人はいない。そう言おうとして、トーリは自身の気持ちが沈んでいることに気づいた。
 ぽつりと。

「……必要がなくなったからでは」
「え?」
「存在する理由が、そこにいる必要性がなければ、そこからいなくなるのは必然ではありませんか」

 当然ではなく必然。言葉の違いをトーリは見逃さずに聞き返す。

「必然?」
淘汰とうたされるということです。不用なものを排除し、より更なる高みへ目指したくなるのが人の性というものでしょう? 良くも悪くも」

 湿り気を増す、うす暗い雲がいよいよ空を覆い始める。

選択はってん淘汰はいじょの繰り返し。歴史をひも解いても、文明や人の進歩は合理の上に成り立っているものですよ。道理ではなく」
「な、なんか難しいこと言うねフリア……」

 言っている意味が完全に理解できないわけではないのだが、小難しい話はトーリの専門外だ。
 すると、諦めきれない空疎な響きが唇から吐息のように漏れる。

「……誰からも必要とされず、存在を認められないというのは、そこに存在していないも同然でしょうから」
「違う」

 はっきりと、トーリは断言した。

「おれは、おれたちはここにいる」

 人と共存する、しないにかかわらず、その昔から、竜は翼を広げて大空を自由に羽ばたいていた。そのはずだ。
 確かに既に竜の存在は形骸化しつつある。
 だが、〈竜の民〉と契約をしなくなったからという、それだけの理由で行方をくらませなければならない理由はどこにもないはずだ。

「では、いたところで、必要とされないものに意味はあるんですか?」
「だから」

 たまらず、ゆっくりと割って入る。

「必要とされなくても存在してるものはあるし、意味がないように見せかけて意味も意義もあるものもたくさんあるし、ぶっちゃけ意味とかそんなの別に関係な——」
「意味なんて!」

 強引に遮るように、フリアが唐突に怒鳴りつけてくる。
 瞬間、ひるんだようにトーリは言葉を飲み込んでいた。
 構わずフリアが畳みかけるように声を荒らげる。

「意味なんて、もうどこにもないんです——!」

 それはひどく悲しく、そして今にも壊れそうなほどきれいな泣き顔だった。
 目を奪われるほどの美しさに、ガラス細工のようなはかなさに、場違いにもトーリは目の前の少女をきれいだと思ってしまった。

「意味なんて……っ」

 がむしゃらにたたきつけるようで、今にも消え入りそうなほど弱弱しいフリアの叫びが大気を震わせる。昔聞いた、母親の慟哭どうこくのように。
 とっさにどう返していいかわからず、トーリは言葉を失ったまま立ち尽くす。
 一体、今のトーリのセリフの何がフリアの琴線に触れたのか。
 すると、何も言い返してこないトーリに対し、いら立ちが募ったらしい。フリアは、ぎり、と歯をきつく食いしばる。険の乗った声で、泥を吐き捨てるように。

「トーリさんは何にもわかってない……!」

 そう叫ぶなり、走り出してしまった。トーリも追うように走り出す。

「あ、フリア!?」
「クィー!」
「くーきゅ」

 ひょこり、とフリアの後ろ髪の間からクィーが顔をのぞかせる。
 げ、と頬を引きつらせる暇もなく、案の定、クィーが口から火を吐いた。
 燃え上がる白い火炎とフライパンで引っぱたくような衝撃がトーリの全身を穿うがつ。
 防御することも反撃することもできず、燃料もないのに火柱のごとく燃え上がること数秒。
 ぽてん、と。
 いい具合に香ばしい匂いを漂わせながら、トーリはその場に倒れた。

「なんなんだ…よ……」

 つぶやくも、答えてくれる者は誰もいなかった。

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