〜 一譚 〜

 フリアを背負ったトーリがやって来たのは、広々とした森が広がる崖の先だった。
 美しく青々とした森の海は、昔と何も変わらない。まるで永遠を閉じ込めたように。

「とうちゃーく!」
「ここは……」
「ほら、あっちの空見て」

 そう言って、トーリは赤いポピーの花が咲く、やわらかい草むらの上にフリアを下ろした。
 トーリが視線を持ち上げれば、追うようにフリアが空を見上げる。
 そこには、ミルク色の薄いオブラートがかかった、大きな空に七色のグラデーションで彩られた橋がかかっていた。

「……きれい」

 ほう、と感嘆めいた吐息がフリアの唇から落ちる。

「昔さ、ここのあたりで大きな白い竜を見たんだ」
「もしかして、さっき言っていた竜はここで見たのですか?」
「そ」

 場所はもうちょっと〈里〉に近い場所だけどね、と付け加えてから、トーリはなんとなく昔話を始めていた。

「……おれ、ずっと小さい頃からさ、自分が〈竜の民〉で、竜がいるんだって言われ続けてきたんだ。……でも、見たことも聞いたこともないものをいるって言われてもさ、ぴんと来なくて。実際の竜なんて、子供の頃に一度見たきりだし」

 何を思っているのか、フリアは黙ってトーリの話を聞いている。

「父さんが竜と契約の旅に出るって言って家を出た時もさ、ほんとは半信半疑だったんだ」
「トーリさんのお父様は契約の旅に出られたのですか?」
「うん」

 うなずき、トーリは先ほどまでとまったく変わらない調子で続けた。

「旅に出て、そのまま帰ってこなかった」
「す、すみません、わたし……」

 気まずそうに謝ってくるフリアに、トーリは困り顔で明るく笑い飛ばす。

「なーんか、まるでつまらないおとぎ話の続きみたいだよね」

 フリアは肯定も否定もせず、物憂げにまぶたを半分ほど閉じただけだった。どこか取り繕うように尋ねてくる。

「その、トーリさんが旅に出るのは、お父様の意志を継ぐために……?」
「そんなにおれ、親孝行じゃないよ? だって父さんのこと、あんまり覚えてないもん」

 ぼんやりと記憶にあるのは、温かくたくましい父の背中。トーリの赤毛をわしわしとかき混ぜる、節くれだった大きな手。白い歯を見せて、にっと豪快に笑う姿。
 すべては色あせた過去の思い出だ。もう、父の声も思い出せない。薄情なほどに。

「ただ、いるんだって。そう思ったんだ。竜はほんとにいるんだって。父さんが死んだときに、不思議とそう思えたんだ」

 父の死後、淡い記憶は色を増し、心に拍車をかけた。閉じかけていた心のふたがにわかに揺れ始め、胸が騒ぐのをトーリは感じていた。
 もしかしたら、幼い頃の憧れはずっと続いていたのかもしれない。ただ、自分が気づいていなかっただけで。そんなことを思う。
 その後、語ることもなく、二人は虹が消えるまでただ空を見つめていた。
 唐突にトーリは言った。

「フリア。おれは竜と契約を結び直すよ」
「……それは、無理だとわたしは言いましたが」
「そんなこと——」

 言いかけて、止まる。これでは先ほどケンカ別れした時と同じだということに気づき、トーリは落ち着いて言い直した。

「……それでも、おれは竜と契約を結び直したい。そう思うよ」
「くきゅ?」

 フリアの髪の毛の中に隠れていたクィーが興味を抱いたように顔を出す。
 何を思ったのか、クィーがトーリの肩にひょいと飛び移った。

「わ」
「クィー?」
「くきゅ……」

 クィーが心地よさそうに目を閉じながら、トーリのほおに顔を寄せてくる。

「こ、こら、クィー。トーリさんの迷惑になりますから戻ってきてください」
「くーきゅ」
「はは、急になんだよ」
「どうして……」

 困惑めいたフリアのつぶやき。

「フリアの言う通り、もしかしたら、竜はこの世界のどこにもいないのかもしれない。もうとっくの昔に人のことなんて見限って、契約を結び直そうなんて思っていないのかもしれない。だから、姿を消したのかもしれない」

 クィーのあごの下をなでてやりながら、トーリはフリアを見た。

「それでも、おれは信じてる」

 はっきりと力強く、魂に息づいた硬い信念のように。

「この世界に竜はまだいて、また約束を結び直せるって、そう信じてる」

 トーリは力強く断言する。
 しかし、フリアの反応はやはり薄い。
 それに何を思うでもなく、トーリはふと異なる毛色の声で別のことを言った。

「でも、おれ一人じゃ無理だから。だから、フリアにも協力して欲しい」
「わたしにも……?」
「うん」

 こくり、とトーリは首を縦に振った。

「契約を結び直せるって信じてくれなくていい。信じてくれなくてもいいから、協力して欲しいんだ」

 すると、人形のようだったパールグレイの瞳に、ゆっくりと光があふれ出す。固く閉じたつぼみが花開くように、フリアが表情をゆるめた。

「……しょうがない人ですね」

 ふわりと、ホワイトローズの香り。フリアがほほ笑んだのだと理解するのに数秒かかった。

「でも、しょうがないので付き合ってあげます」

 初めて見るフリアの笑顔は、ありていに言えば――魅力的だった。思わず見ほれるほどに。

「トーリさんは非常識っぽいところがあるので、わたしがいないと危なっかしそうですから」
「なにそれ」

 ぷっと、トーリが小さく吹き出した。尊大なのに、不思議とおもしろくて。
 フリアが形のいい眉をきりっと持ち上げて、拳をぐっと握る。

「わたしに大きく出たからには、ビッグになるんですよ、トーリさんっ」
「せ、背ならこれから大きくなるから、もうちょっと待って……」
「そういうことではなく……いえ。改めて、よろしくお願いしますね」

 すっ、とフリアが手を差し出してくる。
 トーリは虚をつかれたように、目をぱちくりと瞬きさせ。

「……こちらこそ」

 ゆっくりとフリアの手を握り返した。小さな約束を結ぶように。
 と。

「きゅ?」

 ぴく、とクィーが垂れた耳をそばだてる。クィーはトーリの肩からフリアの肩へすばやく戻ると、フリアの髪の毛の中にさっと隠れてしまった。

「クィー? どうしたの?」
「——トーリさん!」

 突然、ばっとフリアがトーリの隣に踊り出た。両手を突き出し、光のヴェールのような障壁が生まれる。
 一拍遅れて、汚れを焼き滅ぼす純白の光熱波が、一直線、トーリたちめがけて突き刺さった。

「な――」

 障壁越しでも感じる、びりびりと戦慄せんりつしたくなるほどのプレッシャーと、肌を焦がすほどの膨大な熱量。それに圧倒されたトーリは、我知らず、口を開いていた。
 フリアが苦しげに、くっ、とうめく。
 ほどなくして、光がふっと消えた。また、圧力も。

「誰だ!」
「その反応とセリフは赤点だな、っと」

 声は唐突に上から降ってきた。ばっと顔を上げる。
 木の幹に手をかけ、枝の上に悠々と立っていたのは一人の青年だった。
 黒いジャケットと黒いパンツ。コントラストを成すように白い肌と、一つに束ねられた白銀の長い髪。不気味なほどに美しいエメラルドグリーン色の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように鋭くとがっている。

「……くーきゅ?」

 そっと、フリアの髪の毛の中から、顔だけのぞかせるクィー。
 疑問を言葉にしてみせたのは、トーリだった。

「あんたは……?」
「はじめまして。〈竜の里〉のひな鳥と、そのお目付け役」

 青年は胸に手を当てると、貴族さながらの優雅さで、腰を折ってみせた。

「ま、今日はあいさつに来ただけだ――歯ぁ食いしばれよ、お目付け役!」

 青年が手を頭上に掲げる。フリアが反射的に手を突き出す。
 虚空をまばゆく染める白い火炎が、空気を引きちぎるように解き放たれる。
 轟音ごうおんにも似た音を巻き散らしながら、トーリに襲いかかる白い光。それを、すんでのところでフリアが放った光のヴェールが阻む。
 激突した二つの光がうるさく明滅する。
 二人の魔法の力量は互角——否。

「フリア!」
「……っ!」

 水晶が割れるような澄んだ音と共に、フリアの障壁が砕け散った。
 衝撃のまま、後ろに倒れかけるフリアの身体を、すんでのところでトーリは支える。

「お前は——お前は何者だ!」

 フリアの肩を抱く手にぐっと力を入れながら、トーリは青年をにらみつけた。

「名前ならブライヤー。まあ、お前らからしてみれば、悪役ってやつだな」
「悪役……?」
「そう言った方が一番手っ取り早いだろ?」

 言いながら、ブライヤーが枝から飛び降りる。
 揺れる枝葉と束ねられた長い銀髪が、涼しげに跳ねた。
 トーリたちの前に着地したブライヤーが、芝居がかった白々しい語り口で語り始める。

嗚呼ああ、少年は少女と共に竜と契約を結ぶ旅に出る。だがしかし、行く手を阻むのは謎の青年――もとい、麗しの美青年」
「美青年って自分で言っちゃうのかー。まずいなー、この人」

 トーリはつぶやいたが、ブライヤーはきれいに無視してくれた。

「さぁて、少年少女は窮地を切り抜け無事竜と契約を結ぶことができるのか!?」
「めっちゃくちゃつまらなさそう。その物語」

 水を差すようにずばり一言。
 胸に手を当て、もう片方の手を虚空に伸ばし、緩やかなかぶりを振っていたブライヤーの動きが止まる。彼はつまらなさそうに眉をひそめた。

「今のお前らと俺の話をそれっぽく言ってやってんのによー。つまらないとはなんだ」
「だってその流れだと、少年少女は困難を乗り越えて無事に竜と契約を結ぶことができましたとさ、ちゃんちゃんっていうのが定番でしょ?」
「さーて、それはどうかな?」

 挑発するように、にやりとブライヤーが口の端を持ち上げる。
 一体いつから話を盗み聞きしていたのかと今さら聞くのは、粋か無粋か。どうでもいいことを考えながら、トーリは相手の出方を待つ。
 と、ふらふらとおぼつかない足取りで前に進み出たのはフリアだった。

「あなたはどうして……」

 ごくりと喉を震わせた後、フリアは何も描かれていない円形のガラスみたいなペンダントをぐっとつかんだ。

「どうして、魔法でそれだけ攻撃的な力を使えるのですか!」
「どうしてってそりゃ……」

 言いかけて、ぴんと来たらしい。ブライヤーが、にやりと底意地の悪い笑みを浮かべる。

「さーて、どうしてでしょう?」

 ブライヤーの問いに。
 フリアの反応は劇的だった。

「この!」

 フリアの周囲に、屋根の支柱にも似た骨太の氷柱が次々と現れる。
 ぞわり、とあたり一帯の温度を一時的に下げるほどのすさまじい冷気がほとばしる。
 初夏ではありえない気温とフリアの戒魔士としての実力を前に、鳥肌が立つのを感じながら、トーリはブライヤーに襲いかかる氷の柱を見送った。
 命中する直前、ブライヤーが軽く手で弾く仕草をした。ガラスを砕くような甲高い音が鳴り響き、あっさりと氷が砕け散る。

「な——」

 きらきらと、鏡のように光を反射して輝く氷のかけらに、驚愕きょうがくに染まったフリアの顔が映る。
 ブライヤーはぷらぷらと気だるそうに手を振りながら。

「相手を攻撃できる魔法じゃ俺にはかなわねぇよ。守りの方はお前の方が上だろうがな」
「フリア、知り合い?」
「……知りません、あんな人!」

 憤まんやるかたないと言わんばかりに肩を怒らせて、フリアが怒鳴り返してくる。
 肯定したのはブライヤー本人だった。

「そこのお目付け役の言う通り、うそ偽りなく初対面だぜ。まったく知らないってわけじゃあないけどな」

 それだけ言って、ブライヤーがきびすを返した。

「ま、待て!」

 反射的にトーリは駆けだした。
 待てと言われて待つやつはいない——そう頭の冷静な部分がささやくも、踏み出した足は止まらない。ブライヤーの黒いジャケットに手を伸ばす。
 と、ブライヤーが急にぴたりと足を止めた。

「へ? ちょ、あ——ぶ!」

 駆けだした勢いのまま、ブライヤーの黒い背中とトーリの顔面が激突する。

「……ぅう」
「おーい、大丈夫かー?」

 のんきにも首だけ振り返らせるブライヤー。
 トーリがよろよろとブライヤーから数歩離れる。痛む鼻先を押さえながら、その場に座り込んだ。
 わざわざトーリの前にしゃがんでくれるブライヤーを、ずびし、と指さす。

「なんで急に止まるんだよ!」
「待てって言ったのはお前だろうが」
「だからって本当に止まるやつがいるかよ!」
「言う通りにしてやればこれだ……。で、なんか用かよ」
「そ、それは……」

 思わず引き留めてしまったものの、言いたいことも何も思いつかないことに気づいて、みるみる勢いがすぼまる。

「用がないんなら行くぜー。俺、ヒマじゃないし」
「へ? あ、ちょっと待って!」
「ほらほらほら。さーん、にー、いーち、ぜーろ……」
「お、おれたちの旅を邪魔しないでください!」
「すなおかっ」

 純粋に目を丸くするブライヤー。
 トーリはなんだか疲れたような気分でがっくりと肩を落とした。

「他にどう言えって言うんだよ! っていうか、そっちこそ、なんでおれらの邪魔をするんだよ」

 にんまり、にっこり。

「邪魔したいから」

 あ、これ教えるつもりがないタイプだ。即刻その答えにいたる。
 背後からフリアがばたばたと追いついて来る。

「トーリさん、そのままその人を捕まえててください!」

 フリアの周囲に、細く編み込んだ鎖のような光が走る。
 魔法の規模を見て取ったらしい。ブライヤーはさっと逃げるようにすばやく立ち上がった。

「おっと、お目付け役。お前に本気を出されると困るんだな」
「あなたは……あなただけは見逃すわけにはいきません!」
「使命感に満ちあふれてるな。だが、お前の使命感は、何のための、誰のための使命感だ?」
「——!?」

 フリアの瞳がこれ以上にないぐらい見開かれる。
 ブライヤーの低く穏やかな口上が、歌声のように流れる。

「意味のない存在、意義のない目的、意志のない力。なら、それこそお前がいうところの“意味がない”ってやつなんじゃないのか?」
「……っ、知った風な口を——!」
「知ってるからな」

 懐かしむように目を細めながらブライヤー。
 刃のようなエメラルドグリーンの瞳に、慈しむような色が浮かぶ。その声は、博愛主義者のようにどこまでも優しかった。

「……同じだよ、俺も、お前も」
「ぁ……あ……」

 おびえをはらんだように、フリアの声が震える。
 フリアの魔法の輝きが激しく乱れ、ほどなくして霧散した。
 駆けだした足がみるみる勢いを失い、とうとう立ち止まる。
 そのまま彼女は放心したように、すとん、と膝から崩れ落ちた。
 がく然とうつむいたフリアの瞳は、理解したくなかった絶望を理解したように見開かれていた。
 朗々としたブライヤーの声が、冴え冴えとした雨上がりの空に響き渡る。

「なら自由に好き勝手やりゃいいじゃねえか。そんなに他者からの肯定が大事か? 他人から定義づけられないと地に足ついて立ってられないのか?」
「何を話してるんだか、正直さっぱりわからないけど——」

 トーリが問答無用で腰から剣を引き抜いた。
 同時、右手で左腕のブレスレットに象嵌ぞうがんされた法石ほうせきの表面に触れる。
 法石に刻まれた紋章が星のようなきらめきを放つ。剣が太陽のような琥珀こはくの光をまとう。

「——おれは、おれたちはここにいる!」

 天を衝く宣言と共に、剣を一閃。
 後方へ軽やかに跳躍したブライヤーとトーリたちの間に、鋭い光がひらめく。
 たん、と着地したブライヤーを視界の端にとらえながら、トーリは冷静に剣を払った。

「意味があるとかないと関係ないとか、意味がなくてもいいとか、もうそんなことを言うつもりはない」

 激昂げっこうするでもなく端然と言い切り、ブライヤーを真正面から見据え。

「けど、あんたに意味がないなんて言われる筋合いもない!」
「トーリ……さん……」

 座り込んでいた傍らのフリアが、何かを拾い上げるように、トーリを見上げた。
 ブライヤーがあっさりと肩をすくめる。

「まったくもってして同感だな」

 と、ブライヤーはフリアを見て、ふっ、と笑った。

「緩やかに死んでいくことも活力に満ちあふれて生きることもできず、誰かを恨むことも罵ることもできず、中途半端ないっちょまえの正義感ばかり振りかざして、誰かが殻を破って助けてくれるのをずっと待っているだけの籠の中の鳥が……いやはや感慨深いものだな」
「とりあえずうるさいからその口閉じてくんないかな。うるさいから」
「おまっ、二度言うか」
「言うさ!」
「くきゅ!」

 加勢するように、トーリの肩に飛び乗ったクィーが威勢よく鳴く。
 トーリは剣を振り上げた。二度目は当てる。はっきりとした攻撃の意志を持って、トーリはブライヤーに斬りかかった。
 余裕の笑みを浮かべたブライヤーが手を虚空にかざした。
 すると、大気がざわめき、濃い灰色の雲がブライヤーの上空に渦巻く。嵐を予兆させる不穏な気配に、木々たちが音もなく揺れる。
 ブライヤーの指先が、空間をなぞるように、あるいは目的地を示すように、上から下におろされ——

 前触れもなく、世界が白に染まった。
 一瞬の遅れ、空を二つに割いたような轟音ごうおんが大地を震わせる。

 トーリとブライヤーの間に落ちた雷から放たれる、すさまじい衝撃。
 神経の奥まで響く落雷の余波を食らいながら、トーリは必死に弾き飛ばされないよう足で地を踏みしめる。眼前に剣を掲げ、まぶしさに目を閉じないよう歯を食いしばりながら。
 やがて、ふっと光が収まり、トーリは閉じかけていた目をゆっくりと開いた。
 目を開いた先、後に残っていたのは——竜の爪痕のような巨大な断裂。

「な……」

 息を飲むほどの光景に、トーリがただ絶句する。
 ブライヤーは何事もなかったように話しかけてきた。

「その意気込みを評して、いいことを教えてやるよ。ここから南、エンハンブレ共和国にある海上都市ヴェール・ド・マーレに行ってみな」
「……エンハンブレ共和国?」

 エンハンブレ共和国。ヴェルシエル大陸を二分する国家の一つ。かつてドミヌス王国の君主制を否定し、対立した共和制の国家。

「あそこには、竜がいる」
「え……?」

 ほうけた声は、トーリとフリア、果たしてどちらのものか。
 竜がヴェルシエル大陸から姿を消して、幾百年。
 偶然、あるいは風のうわさで竜を見かけたという話を、定期的に街へ繰り出すセトや〈里〉の外に出た人から聞いたことがあっても、どこかに定住しているという話は一度も聞いたことがない。
 もちろん、セトや〈里〉の人たちから聞いた範囲の話であって、意図的に情報が伏せられていた可能性もある。

 だとしたら、ブライヤーの話もあながち——?

 そこで、草木を踏みしめる音。
 はっと顔を上げれば、今度こそブライヤーが歩き出していた。

「待て!」
「待たねぇよ。サービスは一回までってな」

 ブライヤーが崖下に飛び降りる。
 途中、彼は世間話でもするように話しかけてきた。

「ああ、そうそう、竜と約束を結び直すとか能天気なことを言ってるお前に、老婆心ながら教えてやっぜ」

 ばっと、トーリは崖下を見下ろした。
 永遠を思わせるように美しい樹海に吸い込まれるように、ブライヤーが両腕を広げて落下していくのが見える。まるで、深いコバルトブルーの海の底に沈むように。

 ——虐げられた者に、道徳を望むというのは高慢ってもんなんだぜ?

 預言かなにかのように。
 姿が消えた後、聞こえないはずのブライヤーの声が、虚空にこだました。

一譚 「大気を統べ、天候を支配する天空の覇者——竜」 閉幕

BACK

HOME

NEXT