序章、あるいは最終楽章
始まりを告げる優しき奏鳴曲
第一楽章
前奏曲に集う役者たち
第二楽章
紅い靴の少女が踊る円舞曲
紅い靴の少女が踊る円舞曲
第三楽章
背徳者たちの奏でる喜遊曲
背徳者たちの奏でる喜遊曲
第四楽章
理に惑わされた諧謔曲の欺瞞
理に惑わされた諧謔曲の欺瞞
第五楽章
約束の地に舞い降りた合唱曲
約束の地に舞い降りた合唱曲
第六楽章
全ての愛しきものたちに捧げる命の夢想曲
全ての愛しきものたちに捧げる命の夢想曲
終章にして序章
幼年期の終わりに導く小さな終曲
幼年期の終わりに導く小さな終曲
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冬のおわり。あるいは、春のはじまり。
まだ解け切らない雪の下、雪割草が息づいて芽吹きのときを待つ。
おおきなおおきな喪失の果て。静寂に包まれた空と風のなか、少年は歩いていた。
真っ白い雪の上に、一人分の足跡が続いていた。
空は澄み渡る紺青。雲ひとつない空の下、美しい樹氷の森が広がっている。
昨夜、ひらりひらりと舞った季節外れの雪は、たった一晩でここら一帯を冬に逆戻りさせたらしい。零れた白い息が、千切れて消える。
もうスミレの月に入ったというのに。おまけにここは大陸の南部だというのに。少し辟易とした気分になりながら、エルスは紺色の外套を手繰り寄せた。
奥へ深く続く森は静かに眠っているようだった。ともすれば、時が止まったかのような白く幻想的な雪景色。目覚めの日はいつか来るのだろうか。とりとめもなくそんなことを考える。
エルスは無言で森を進んでいった。厚い革の靴底で雪を踏みしめて道を作り、樹氷の枝を押しやる。枝が揺れ、はらはらと枝に降り積もった雪が黒髪に落ちた。音もなく透明に解ける。
何度、同じことを繰り返しただろうか。
視界が一気に開けた。光を跳ね返した雪がまぶしく光る。
森のなか、ぽっかりと開けた空間に白い塔が見えた。
正確には、それは塔だったものだった。伐採した後に残った切り株のように、白い塔は根本近くで切り取られていた。崩れた数々の瓦礫は雪に埋もれ、朽ちて久しい。
色褪せた廃墟に、かつての塔の面影はどこにもない。千年生きた大樹のごとく立派な白い塔は、いとも容易く時の流れの彼方に消え、埋没した。
そのことに感傷的になるでもなく、エルスは呟いた。
「……あれから、一か月程度しか経っていないんだがな」
「まるで、時の流れがここだけ狂ってしまったかのようね」
背後から妖精のように愛らしい声。
反射的にエルスは腰裏に手を伸ばした。剣帯から短剣を抜き放ち、振り向きざま相手を斬りつけようと身を捻り──
ふわり、と光が舞うのを見た。
エルスは止めかけた息を吸い、その名を口にする。
「……シルヴェステル」
「久しぶりね、エルス」
目の前に、十歳ぐらいの金髪の少女が宙に浮かんでいた。淡く微笑んでいる。
陶器のように白い肌と真っ黒いワンピースはうっすらとした燐光をまとっていた。双眸は、彼女や彼と同じ翡翠色。
ふふっ、と、少女が笑う。年端もいかない姿によく似合う無邪気な笑い声。
「驚かせちゃったかしら」
「神出鬼没って言葉、知ってるか?」
エルスは呆れるでもなく短剣を剣帯に納めた。
シルヴェステルが、翡翠色の瞳をわざとらしく大きく開いた。
「まあ、人のことを幽霊か何かみたいに」
「なら干渉権限をこれ以上乱用するな。こっちはこんなこともうこりごりだ」
「ごめんなさいね。でも、ありがとう。あなたのおかげで助かったわ」
思いもよらない言葉に虚を突かれ、とっさにエルスは口をつぐんだ。
素直に謝られ、感謝までされてしまっては、それ以上何も言えなくなるというもの。
代わりに。
「……なら、お前はこれで満足か。シルヴェステル」
少女が小さく首を傾げた。足元まで伸びた長い金髪が、動きに合わせて緩やかに波打つ。
「それは、どういう意味かしら」
「そのままの意味だ」
シルヴェステルの翡翠色の瞳に、黒髪の少年の姿が映る。
十五、六歳ぐらいの端正な顔立ち。少年らしい細い腕と肩の線はまだ頼りない。中性的で未成熟。どこにも所属してない。どこにも行けない。中途半端。
曖昧で不確定な、どこか精彩を欠いた静謐な表情のなか、ただ、蒼空色の瞳だけが意志の色を宿していた。
「その質問は、言外に別のことを尋ねているように聞こえるんだけど。言いたいことがあるのなら聞くわよ。不満でも、叱責でも」
「あいつの尊厳にかけて言うが、そういうつもりは、ない」
静かに、だが冴えた声で答える。
「この結果がお前の予定通りだったとしても、あいつの覚悟や俺の判断を、予定通りなんていう言葉で片付けられたら、たまったものじゃないからな。ただ──」
言いかけたエルスの顔に陰が落ちる。軽く俯いたまま、彼は続けた。
「良い悪いにかかわらず、想定した通りに物事が進むというのは快感なのか、それとも退屈なのか、少し気になっただけだ」
ひとひらの花が、エルスの顔の前を舞った。
白く、美しい銀の花が空から降り始める。大地を埋め尽くすように。
シルヴェステルは決然とした表情で答えてきた。
「遣り残したことは全てやった。辿り着くところにも辿り着いた。そういう意味では、満足よ」
揺るぎない答えにエルスは目を閉じた。そうか、と短く返す。
「そんなことより、聞きたいことがあってここに来たんでしょう?」
「そっちこそ、俺が聞きたいことぐらいわかってるんじゃないのか? 俺がここに来るのはお前の予定調和に組み込まれてないわけじゃないんだろ」
「そう言ってくるっていうことは、もう気付いているみたいね。仕組みも仕掛けも」
「当たり前だ」
しばしの空白。
シルヴェステルが口の端を緩く持ち上げる。薄氷でも張ったような、今にも解けて消えてしまいそうな、儚くて切ない微笑み。
「とても、とても素晴らしいことになったでしょう?」
春風にはまだ遠い、冬の風が吹き抜ける。透き通った香りがする一つの風が。
それは雪を走り、空を駆け、花をどこまでも流し、何もかもをさらって吹き抜けた後、最後にふっとエルスの黒髪をなぞり──虚空に消えた。
やがて。
「……ああ」
ただ、一言。
簡潔に彼はそう言った。