〜 一譚 〜

 吹き抜ける風の声がする。
 さらさら、さらり、さらさらり。
 まるで、風が大空で歌うように。

 ふと、足元に踊った黒い影に、空を見上げる。
 天蓋てんがいのように空を覆う緑の枝葉の隙間。そこを横切ったのは、二対の翼を広げた大きな影。
 それ追いかけるように、少年はその場を走り出した。

 さらさら、さらり、さらさらり。
 森を走っている途中、一緒に遊ぼうよ、と誘うように耳をくすぐるのは、あの風の歌。竜の歌声。

 そうやって森を駆け抜け、息を切らしてたどり着いた先は、友だちと幾度となく語り合った崖。
 切り立った崖の先には、まるで永遠を閉じ込めるような、美しく青々とした森の海が見渡す限り、どこまでも続いている。
 その上空を一体の白い竜が飛んでいた。のびのびと、自由に。
 その光景に、その景色に。
 身体の奥からゆっくりとわき上がってきた、心が躍るような“それ”は、興奮か、感動か。
 見るもの聞くものすべてに向かって思わず両手を広げたくなるような、心地良い解放感に包まれながら──

 ただ、あの大空を竜と一緒に飛びたいと思った。

 どすん、と。
 いい夢を見た後は、床とか落とし穴とかに落ちると相場は決まっていて、今日もそれは例外ではなかったらしい。
 仰向けに寝転がったトーリの目の前には、天井でくるくると音もなく回るプロペラ。
 くるくる。くるくる。くるくる。
 無意味に回転するプロペラを前に、ぱちぱちと瞬きを繰り返したところで、トーリは自分が夢から覚めたことに気づいた。
 むくり、と身体を起こせば、周囲には見慣れたいつもの自分の部屋。
 トーリはすっくと立ちあがるなり、ぱたぱたと走り出した。
 赤いチェック模様の薄い掛布団。古ぼけた本。ブリキみたいに安っぽい真鍮(しんちゅう)の箱。まるで宝箱をひっくり返したみたいにごちゃごちゃとした床を走り抜け、カーテンがおろされた窓際へ。
 さっとカーテンを開け放った窓の外には、広大な麦畑とオリーブ畑、糸杉並木といった、木によって葉の色や枝ぶりが少しずつ違う、アースカラーの端切れをつないだキルトのような緩やかな丘がどこまでも広がっていた。丘の途中には、ぽつんぽつんと石を積み上げたような家が寄りそっている。
 まるで世界の端っこみたいな小さな村。
 誰も知らない、誰にも知られていない、地図にさえ載っていない、人々から忘れ去れてしまったような、〈竜の里〉。
 そこへ、一階からくぐもりがちの母親の声が聞こえてくる。

「トーリー! そろそろ起きなさーい!」
「はーい! もう起きてるー!」

 部屋の外に向けて、大きく声を張り上げる。
 それから、シャツに着がえ、はしごみたいに急な階段を降り、カーテンとも呼べない薄っぺらい布の下をくぐって洗面台へ。
 銀色の蛇口をひねれば、井戸から引いた冷たい水が音を立てて流れ出す。
 鏡の中の、タオルで顔をふくトーリはどこか小さく笑っていた。いい夢を見たからかもしれない。何をどうしても爆発しっぱなしの赤毛が、きれいに整う夢は見たことはないけれど。
 キッチン兼食堂に駆け込むなり、元気なあいさつ一つ。

「おはよう、母さん!」
「おはよう、トーリ」

 トーリと同じ赤毛を束ねた母親が、キッチンに向き合いながらあいさつを返してくる。
 広くない部屋の中央に置かれたテーブルの上には、ライ麦パンとこんがり焼けたベーコンと目玉焼き、そら豆のスープ、以下エトセトラ。

「テーブルの上のプラムのジュース、グラスに入れてちょうだい。あと、フォークも出して並べて」
「はーい」

 いいお返事をしてから、トーリは母親の背中をちらりと盗み見た。こっそり見つからないようベーコンを一枚拝借。

「トーリ、つまみ食いしちゃだめよ」
「うえ」

 ぎくり、と。ベーコンに伸ばしかけた手を止めてうめく。
 武術を習っているわけでもないのに、こういう時の母親は気配に目ざとい。背中に目でもついているのだろうか。

「悪さしてないで、さっさとやることやんなさい」
「はーい……」

 大人しく言われた通り、棚から透明なグラスを取り出し、プラムのジュースをなみなみと注ぐ。のちに、をフォークも並べて素直に着席。
 明るいオレンジ色のナスタチウムの花のサラダを持った母親がイスに座る。

「いただきます」
「はい、召し上がれ」

 それは昨日も今日も、きっと明日からも続いていく食卓。
 トーリはきれいな赤ワイン色をしたルバーブのジャムを、ライ麦パンにこってり塗りたくった。次に、食べられる分だけベーコンをたくさん、ナスタチウムの花のサラダはやや控えめに、白い皿に盛りつける。
 途中、うっかり塩加減を間違えて塩っ辛くなったチーズを舌の上で転がしていた時のことである。

「そうそうトーリ。ご飯食べ終わったら、タヌキ交差点へ行ってちょうだい」

 タヌキ交差点。タヌキを見かけることが多いからという理由で、〈里〉の人がつけた安直なネーミング。
 それはともかく、トーリは聞いた。

「なんで?」
「セト様が用事ついでにそこを通るんですって。で、せっかくだから、あんたの顔を見たいっておっしゃってたのよ」
「ええー……?」

 口をついて出たのは、あからさまな不平。

「こら、そういう顔しないの」
「だってセトさんがそう言うってことは、いつものお説教だろ……?」
「セト様と呼びなさい。次期族長様に失礼よ?」
「だってセトさんでいいって、セトさん言ったもん」
「あんたはもー、言い訳しない。とにかく、朝ごはん食べ終わったら交差点へ行くこと。いいわね?」
「はーい」

 実に気のない返事をしてトーリは立ち上がった。ごちそうさま、と言いながら食器をさっさと片付け、玄関へ。
 図形にも見える草花の刺繍(ししゅう)が描かれたバンダナを頭につけ、手入れが行き届いた革靴を履き。

「……っと」

 勢いのまま外に飛び出す直前、トーリは足を止めた。靴箱の上にある写真立てに視線を向ける。
 やや色あせた写真に写っているのは、得意げにピースしている幼い頃の自分。そんなトーリの肩を抱く笑顔の母、そして。

「……いってきます。父さん」

 そして、竜と契約を結ぶ旅に出て、命を落とした父親。
 今は亡き父にあいさつをして、トーリは家を出た。

 ——お父さんは、立派に〈竜の民〉として最期まで生きたのよ。

 八年前、陽気で気丈な母が大声で泣きながらトーリを抱きしめた日のことをよく覚えている。

 大気を統べ、天候を支配する天空の覇者——竜。
 そして、竜の声を聴き、竜と対話する〈竜の民〉。
〈竜の民〉の始祖である一人の人間が、ケガをした竜を手当てしたことをきっかけに、二つの種族は共存関係にあった。
 水不足が続けば、竜は天の恵みである雨を降らせ、屋根が吹き飛ぶほどの強い嵐が訪れれば、晴れ渡る青空を呼び戻す。
 人々は竜の力に助けられ、代わりに竜は人々からいくつもの物語を聞く。
 竜と人。異なる二つの種族が協力して生活する、穏やかな日々。
 そこには誰もが夢見る、平和な理想郷があった。

 “あった”。すなわち、過去形。

 きっかけが何だったのか。
 人々は竜の力を私利私欲のために使い始め、竜の力を奪い合い、争いを始めるようになったのだ。
 時には、竜を信仰する人々同士が、己が崇める竜こそが至高の竜だと主張をし、竜を無益に戦わせようとすることもあった。
 竜は争いをやめて欲しいと望み、〈竜の民〉は人々に竜の思いを告げた。
 だが、人々は聞く耳を持たず、争いは泥沼化していくばかり。
 やがて、日ごろの鬱憤(うっぷん)が蓄積したのか、歴史には記されていない致命的な断裂があったのか、それは誰にもわからない。
 いつしか竜は、人々の前から姿を消した。

 ……そして、竜の声を聞く〈竜の民〉は。

 竜の恩恵を取り戻そうと躍起(やっき)になった人々に追い立てられるような形で、竜と再び契約を結ぶための旅に出た。
 だが、失敗に失敗が続き。
 人々にも〈竜の民〉の間にも、諦観の空気が色濃く漂い始めた頃、肩身を狭くするように、〈竜の民〉はひっそりと大陸の隅に隠れ住むようになった。

 それから時は流れること、数百年以上。
 トーリの父が竜と契約を結ぶ旅に出——そして二度と帰ってこなかった。

 父親の死を悲しいと思わなかった。
 代わりに、ぽっかりと心に穴が開いたような、空虚感が広がるばかり。
 父の亡骸(なきがら)は返ってこなかった。
 亡骸のない父親の訃報(ふほう)を嘘だとも思わなかった。
 冗談も泣き真似もするお茶目な母親が、その時ばかりは見たこともないような大粒の涙を流し、聞いたこともない泣き声を上げながら、トーリにすがりつくように泣いていた。それが演技の類ではないというのは、幼心によく理解できた。
 今も耳の奥に残るのは、胸が引き裂かれるほどに悲しい母親の慟哭(どうこく)
 そして、父の死は、幼いトーリの心に、深く——とても深く突き刺さった。
 同時、トーリが竜と契約を結ぶことを明確な目標ないし夢として掲げたのもこの時だった。
 それは、亡き父の意志を継ぎたいという大層な使命感からくるものではなく。
 ただ、竜はいるのだと。
 すとんと、答えが落ちてきたからだった。まるで父の死と引き換えにしたように。

 父の死後、いつか竜と出会う夢を胸に描き、その期待が心に降り積もるのを感じながら、季節はゆるやかに過ぎていった。
 冬の間に土の準備をし、春にサクランボのジャムを煮つめ、夏には干しイチジクを、秋には大きな(たる)にワインを作る。
 やがて、凍えるような寒さが終わり、まいた種から彩とりどりのクロッカスの花が咲き、またブドウ畑の緑がみずみずしく輝く季節がやってくる。
 ふと横を見れば、枝に実る幼いブドウの実はまだ青く、色づくにはまだ遠い。
 そうしてたどり着いたのは、サビついた看板が立つタヌキ交差点だった。
 こぼれ落ちそうな白い花が咲く傍ら。そこに立つのは、上質なローブを着た青年——セトだった。
 セトはトーリの姿を見とめると、ふわりとやわらかい笑みを浮かべた。草花を描いた図案の刺繡が施された衣服のすそが、振られる手に合わせて揺れる。
 ひもで緩く束ねた髪の毛と同じ、ヘーゼル色の瞳が優しく細められた。

「トーリ君、おはよう」
「おはよう、セトさん」

〈竜の里〉の次期里長である青年に、トーリもほほ笑みかける。

 黄金時代、きらめく魔法と共に栄華を咲かせたオルドヌング王朝が滅んで八百年。
 あるいは、大空を飛ぶ竜がヴェルシエル大陸から姿を消して五百年。
 伝説は、とうの昔に終わっていた。

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