〜 モモと不思議な魔法の小瓶 〜

 春の山だった。
 山の斜面に一本の幅が広い道が走っている。
 片方は山頂めがけて、みずみずしい葉をつけた木と草がまばらに生えていた。
 もう片方は深い谷底へ続く切り立った崖になっていて、崖の下には、深い谷と、ごうごうと音を立てて流れる川があった。川はうねりながら谷の奥へ奥へと続いている。
「返して! 返してください――っ!」
 水の流れる音に混じって、声が響く。まだ幼さが残る年若い声だ。
 山の道の途中で、地面に顔を押さえつけられているのは、金髪の少年だった。
 旅人なのだろう。彼の周囲にはテントの骨組みや折り畳み式の調理台といった旅荷物が散らばっている。
 少年の前で仁王立ちしているのは人相の悪い大柄な男だった。
「それは大切なものなんです! お願いですから返してください――」
 谷を背にしている男の手には宝飾品のように美しい小瓶が握られている。それを取り返そうと、少年は必死に叫んでいる。
 だが、男は耳の裏側に手を当てながら、わざとらしく聞き返しただけだった。
「はぁ? よく聞こえねぇなぁ。こいつがなんだってぇ?」
「それは、僕にとって本当に大切なものなんです。お願いしますから……返してください」
 泥が口の中に入るのにも関わらず、彼は押さえつけられたまま痛切に訴える。
 すると、その訴えが届いたのか、はたまた気まぐれか、男がにやにやとした笑いを引っ込めた。男は、ふと思いついたように真剣な面持ちになると、神妙そうにうなずく。
「そうか……本当に、こいつが大事なもんなのか」
「え。まさか返してやるつもりですかい?」
 うろたえたのは少年の背中に乗っていた小柄な男だった。傍には、やせ細って貧相な体つきの男が立っている。
「ああ。そのつもり、じゃなくて返すんだ。ほら、お前ら、そいつを解放しろ」
 しっしっ、と邪魔な虫を追い払うような仕草で、男は彼を押さえつけていた仲間の男二人を散らしにかかる。
 少年は救いを見たように顔を輝かせた。泥まみれになりながら、身体を起こす。
「あ……ありがとうございます……」
「ほらよ、返してやるから、ちゃんと受け取りな。ほーれ」
 そう言って男は小瓶を背後の崖に向かって放り投げた。男の手から離れた小瓶は、緩やかな弧を描きながら、崖下へと落下していく。
「あ……」
 その一部始終を見ていた少年の口から、絶望的な声が落ちた。たった一つの淡い望みが費えたような、それ。
 男は腹を抱えて盛大に笑い出した。
「ぎゃはははははっ、悪《わり》ぃ悪ぃ。うっかり手が滑っちまった」
「うっかりって、あれがかよ。酷《ひで》ぇ奴だなあ」
「けど、受け取れなかったお前も悪いんだぜ。おれは言ったはずだぜ、ちゃんと、受け取りなって――なっ!?」
 男は驚いた。というのは、少年が疾風のような素早さで飛び出たからだ。
 少年はあっという間に男の脇を通り過ぎると、小瓶が落ちた崖へ、すなわち川の流れる谷底に飛び込んだ。
 信じられない行動に出た少年の姿を追うように男たちが崖付近に集合する。
 彼らは少年の姿を探して崖下をのぞき込んだ。
 切り立つような崖の先、広々とした谷の間を流れる川が、はるか遠方に見える。
 少年は崖の途中に生えている木々に何度かぶつかりながら崖下へと落ちていった。少年の姿は、見る見る遠ざかり、やがて見えなくなった。
 遅れて、水に大きな荷物が落ちたような音と共に川に水しぶきが上がる。少年が川に落ちたのだろう。
「……けっ、ざまぁねぇ」
 男の一人が悪態をつきながら崖に背を向けた。それを見た残りの二人も、ぞろぞろと続くように崖から離れていく。
「あーあー、あいつ死んじまったかな?」
「さてな。そんな高くねぇとはいえ、頭の打ち所次第ではただじゃあ済まねぇだろうな」
「兄貴も素直に返してやりゃ良かったのに」
「あーゆー、眉唾モンには反吐が出るんだ」
「けど、本当だったら、もったいなかったんじゃね?」
「馬鹿かお前。んな都合いいもん、そう簡単にあるわけねぇだろ」
 そう言って兄貴と呼ばれた男はけっと吐き捨てた。
「――願いを一つ叶えてくれる、なんて一世紀も前にすたれたような夢物語は」

 谷の間を流れる川の水が、澄んだ音を奏でながら下流に流れていく。
 谷と同じく豪快に広い川は、白く狭い砂浜に挟まれていた。その左右には緑鮮やかな丘が幾重にも連なっている。
 新緑の絨毯にも見える丘陵は、見渡す限りの大地に緑のうねりを作っていた。
 きれいに晴れた空には、真綿のような白い雲がいくつか浮かぶばかり。緑の丘を緩やかに吹き抜ける風はどこまでも爽やかだった。
「んー、今日もいい天気ってね」
 弾んだ声を上げたのは、川沿いを歩いていた一人の少女だった。
 赤い髪を半分だけ後ろで束ねた少女である。その腕には、枕ほどの大きさをしたラタンのカゴがかけられている。
「カルタベリーの実もたくさんとれたし、大漁大漁っと」
 そう言って彼女――リゼットは山の上を見上げた。山の峰々にはところどころ雪がまだ残っている。
 その時だった。川の上で、きらりと何かが光るのが見えたのは。
「ん? 何かしら」
 もしかして、金貨や宝の類だろうか。
 実に単純で現金な発想が浮かぶと同時、彼女はカゴを脇に置いていた。長い深紅のスカートを腰のあたりに縛り付け、革靴を脱いで後ろ手に放り投げる。それから、さぶざぶと冷たい水をかき分けながら、光り輝くそれめがけて川を進んでいく。
 川の上流から流れてきたのは小さな小瓶だった。金の鎖と装飾が施されたそれをリゼットは川から拾い上げ、手の平にのせた。小瓶の中に水はほとんど入っていない。
「……瓶? なんでこんなものが」
 そう言いながら周囲を見渡したところで、彼女は自分のいる場所より上流の川べりに金色をした何かが――人らしきものが流れ着いているのを発見する。
「嘘! やだ!」
 慌てて小瓶をポケットに押し込み、川から上がる。手早く靴を履いて、彼女はその人物の下へと急いだ。
 川の岸辺に流れ着いていたのは、リゼットと似たような年ごろの少年だった。
 金色の髪は陽光を浴びて水面と同じようにきらきらと輝いている。目こそ閉じているが、整った顔の造形は、まるで精巧に作られた人形かなにかのようだ。
「ちょ、ちょっとあなた、大丈夫?」
 肩を揺さぶりながら呼びかける。
 見たところ、少年に大きな怪我のようなものはなく、血も流れていない。
 リゼットは少年の身体を川から引きずり出した。衣服が水を吸い込んで重くなっているせいか、見た目に反して重い。
 少年を岸辺まで運んだところでリゼットは一息ついた。息を整え、改めて自分が引きずりあげた少年を見つめる。
 黒い脚衣《パンツ》と濃茶のブーツ。深緑にも見えるくすんだオリーブ色のマントはうすら汚れている。
「ちょっと、お兄さん? 生きてますか?」
 ぺちぺちと頬を叩いた後、リゼットは少年の胸に耳を当てた。しかし、川の音に邪魔されて心臓の音がよくわからない。
 ならば、とリゼットはその手を少年の口元に伸ばした。息を確かめようとして。
 そこで、ぱちっと。
「へ?」
 急に少年の目が見開かれる。湖水のように澄んだ水色の瞳。
 瞬間、驚いたリゼットは、反射的に手を引っ込めた。
 少年は目を開くなり、すぐさま飛び起きた。彼はリゼットを見ると、いきなり顔を近づけて迫ってくる。
「小瓶は! 僕の小瓶はどこですか!」
「え、え、え? 小瓶?」
 勢いに戸惑いつつも、リゼットは先ほど拾った小瓶のことを思い出した。ポケットから出して見せてやる。
「もしかして、これのこと?」
 すると、少年は安堵したようにへなへなと肩を脱力させた。
「良かったあぁぁ……」
 その様子を眺めた後、リゼットは手のひらの小瓶を見つめ直した。
「なんだ、これ。あなたのものだったのね。っていうか、まさかとは思うけど、これのために川に飛び込んだんじゃないわよね?」
 お説教でも始めそうな口調でリゼットは問いかけた。だが、答えはない。
 リゼットは小瓶から顔を上げ、ぎょっとして声を上げていた。
「ちょ、ちょっと! あなた大丈夫? しっかりして!」
 見れば、少年は再び仰向けに倒れて目を閉じて意識を失っていた。
 リゼットはやや乱暴に少年の身体をゆする。しかし、少年はぴくりともしない。
「っていうか、起きなさいよ! ここ、町からどんだけ離れてると思ってんのよーっ!?」
 彼女の叫び声は、遠い山々まで届くように響き渡った。

 春の風に吹かれたレースのカーテンが緩やかに波打っていた。
 部屋には西に傾いた陽の光が注がれている。火の入っていない暖炉も、窓際に置かれている白いベッドも、ベッド脇にあるテーブルも夕日を浴びて淡いオレンジ色に染まっている。
 リゼットはベッドの上で寝ている金髪の少年の額に濡れたタオルを置いてやった。
 すると、タオルの冷たさに気付いたのか、少年は一回強く目をつむった後、うっすらと瞳を開いた。
「……ん。ここ、は……?」
 彼は起き抜けのぼんやりとした表情のまま、辺りを見渡した。体を起こし、近くにあるリゼットの顔を見た後、ふにゃりと子供みたいに笑う。
「おはよーございますー……」
「ん、おはよ」
 そう挨拶を返す。
 すると、少年は急にぱちっと目を見開いた。あたふたと慌て始める。
「あ、あれ! 僕、一体! ここは!? っていうか、なんで僕ベッドで寝て!?」
 少年は両手をばたばたと動かしながら目を白黒させた。金髪が動きに合わせて揺れる。丸くなったりぐるぐるとまわったり、せわしなく動き回る瞳が面白い。
 リゼットはくすりと笑みを漏らした。
「あなた川辺で倒れていたのよ。だから、ここまで連れてきたってわけ」
「そ、そうだったんですか……。すいません、なんだかご迷惑をおかけしたみたいで」
「いいのよ。私はリゼット。みんなからはリズと呼ばれているわ。あなたは?」
「僕はモモっていいます」
「モモ? 不思議な名前ね」
「極東の魔境で桃《ペシェ》の花の名を意味するそうです。ところで、すみません、ここは一体どこですか?」
 リゼットはその質問にすぐに答えることをしなかった。
 代わりに、レースのカーテンを大きく開き、窓の外の景色を見せるようにして、どこか得意げに胸を張る。
「ここはリラの町よ」
 窓からは町を一望することが出来た。
 町の中でも比較的高い位置にあるリゼットの家からは、切り取った石で造られた、おもちゃ箱のようにも見える可愛らしい家々が見渡す限り広がっている。
 正面に見える石畳の大通りは並木道になっていた。小花をこんもりと集めたような薄紫色のライラックの花が奥にある広場までずっと続いている。筒状の小さな花が円錐形に集まったような華やかな花は今まさに盛りを迎えようとしていた。
 モモはその景色を、ほぅ、と感嘆の息をつきながら眺めている。
「……で、リラの町って、どこなんですか?」
 がくっと、予想外の言葉にリゼットは肩透かしを食らって床に転んだ。
 ベッドの縁にしがみつくような体勢で、当惑したように聞き返す。
「あ、あなた知らないの? リラの町よ? ドリュース山脈のふもとにある、豊かな水と美しいライラックの花に囲まれた町。そりゃ、七大国家には及ばないものの、人口だってそこそこあるし、それに、そう! 〈ライラックの花道〉って聞けばわかるでしょう? ね? ね?」
 しかし、それを聞いてもモモはピンとこないようだった。ぼけっと不思議そうな顔をしたまま小首をかしげている。
 その反応を見たリゼットはショックのあまり言葉が出てこなかった。それなりに有名な町だと思っていただけに衝撃も大きい。
 もしかして、この少年、美しい花が咲く喜びを祝う花宴《はなうたげ》すらきちんと認識できていないのでは。
 そう思い、彼女は軽い自失から立ち直ると、ごほん、と、わざとらしく咳払いをした。
 きりっとした顔で仕切り直す。
「いい? 〈ライラックの花道〉っていうのはね、オスティナート大陸の三大花宴である〈ミモザの花調べ〉、〈氷晶華《ひょうしょうか》の踊り子〉、〈ミオソティスの詩〉の次に有名な十大花宴と呼ばれるものの中に入ってるのよ。そして、ここリラの町は〈ライラックの花道〉を見るために、毎年大勢の観光客が訪れる有名な町の一つっていうわけ」
 それを聞いたモモが感嘆したように口を半開きにする。
「す、すごい……」
 リゼットは満足げにうなずいた。
 が、モモは自信がないような、よくわからないような様子で首をひねった。
「……んですよね? 多分。リゼットさんの言い方から察するに。僕は、よくわからないですけど。――ってちょっと、なんで泣いてるんですかぁぁぁぁぁっ!?」
「もういい……もういいわよぉ……」
 しくしくと涙しながらリゼットは床に手をついていた。謎の敗北感が込み上がってくる。
 だが、それもほんの少しの間のこと。彼女はすぐに立ち直ると、今度は文句を述べる。
「もう、ちょっと、リラの町を知らないなんて、あなたどれだけ田舎人なのよ……」
「すみません。僕、外のことにはあまり詳しくなくて」
「っていうか、川で行き倒れてるから思わず連れてきちゃったけど、あなたどこの人なの? どこから来たの?」
「僕はあちこちを旅している旅人です」
「ふぅん」
 さらっと聞き流すと、モモは意外そうに軽く目を見張った。声は心なしか残念そうである。
「あれっ? 反応それだけですか?」
「それだけって、どんな反応すればいいのよ」
 他に言うべきことが見当たらず、そう返す。
 すると、当惑するのはモモの番だった。何やら一生懸命まくしたててくる。
「ほ、ほら、旅人なら、どんなところを旅してきたんですかー、とか、旅人なんて嘘でしょうー、とかそういう反応がてっきり来ると思ってたんですけど。今じゃ、旅人ってその程度の扱いなんでしょうか……」
 しょんぼりと頭を垂れさせるモモ。まるで捨てられた子犬か何かのようだ。
 なんだか悪いことをしてしまったような気がして、リゼットは眉を下げる。
「どういう反応よ。ただ、あなたが嘘をつくような人には見えなかったし、別に私としては、旅人でも家出人でも行き倒れでもなんでもいいかなって。あ、犯罪はだめよ? 賞金首とか指名手配とかそういう犯罪者だったら即刻、治安委員会に突き出しますからね」
「なんか、適当ですね……」
 感心しているのか呆れているのかよくわからない中途半端な顔で言った後、モモは何かを探すように辺りを見渡した。
「あの、すみません。小瓶は……」
「それなら、そこにあるわ」
 リゼットはモモが寝ているベッド脇にある小さなテーブルを指さして見せた。そこには、菱形の小さな小瓶が置かれている。
 ぱあっと、モモは子供のように顔を輝かせると、小瓶を手に取って嬉しそうに眺めた。
「良かった。これが無事で……」
 モモはとても大切な宝物を見るような眼差しで小瓶を見つめている。
「さっきも聞いたけれど、あなたもしかして、その小瓶のために川に飛び込んだの?」
「え。あ。……はい」
 悪さをとがめられた子供のようにモモは肩を跳ね上がらせた。
「危ないじゃないのよ。まったく……。そんなに大事なものなら、次からは川に落とさないよう気をつけなさいよ」
「はは、そうですね。気をつけます」
「ねえ、その小瓶って何なの? 形見の品とか?」
「いいえ」
 首を振ってからモモは、何かを期待するような、どこか試すような目で、じっとリゼットの瞳の奥を見つめた後、こう言ってきた。
「――この小瓶は、瓶が水で満たされた時、その人の願いを叶えてくれるんです」
「……はい?」
 今度はリゼットが首を傾げる番だった。
 モモは静かに微笑んでいる。透き通った湖水のように澄んだ瞳は、旅人と名乗った時と同じで、嘘を言っているようには見えない。
 こちらの真意を見定めるような、心の奥を見透かすような真っ直ぐな瞳に見つめられ、なんとなく居心地が悪い。そんなモモの視線から逃れるように目をそらした後、リゼットはおよそ信じられないような口調で。
「願いを叶えるなんて〈カドゥケウスの四宝〉じゃあるまいし。そんな、お伽噺みたいな話、急に言われても……」
 困ったようにリゼットは言いよどむ。
 そんなリゼットを見ていたモモだが、不意にふっと穏やかな顔で笑った。
「そうですよね。そんなの、急に言われても困りますよね。すみません」
「それより、あなた体の方は大丈夫なの? ノワ爺様は大きな外傷もないし大丈夫だろうって言ってたけど、どこか痛むところとかはない?」
「心配をかけてしまってすみません。体の方は問題ありません。別に痛むようなところもありませんし。僕、こう見えて頑丈にできてるんですよ」
「頑丈とかそういう問題じゃない気がするんだけど……。運が良かったのかしら。でも、念のため、しばらくは安静にしてなさいよ? この部屋、貸してあげるから今日は泊まっていってちょうだい。もう日も暮れるし」
 窓から見える太陽は西の地平に沈み、空には宵闇が迫りつつある。
 石畳で覆われた大通りは茜色から濃紺へと変わろうとしていた。東の空には水に浮いたような星が出始めている。
「いいんですか? それじゃあ、ご家族の方にご挨拶をしたいと思うんですが。ご両親はどちらに?」
「いらないわ。というか、いないし」
「いない……?」
 聞き返してくるモモ。リゼットは何を思うでもなく、ごく普通の声で説明する。
「二年前に亡くなったのよ」
「す、すみません」
 叱られた子供のようにモモが肩身を狭くする。その様子にリゼットは苦笑した。
「なんで謝るのよ。あなたのせいじゃないでしょ。まあ、とにかく気兼ねしないでちょうだい」
 軽く笑って、枕元に置いてある衣服を指さす。
「あなたの服は洗って乾かしておいたわ。今、食事持って来るから、着替えててちょうだい」
 そう言い残してから、ぱたんと扉を閉じ、部屋を出る。
「願い事、ねぇ……」
 ぽつりとリゼットはそう漏らした。

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