〜 モモと不思議な魔法の小瓶 〜

 新商品を作ってから、六日後。
 すなわち、店休日の前日の夕方。
「う、売れない……。なんで……」
 リゼットはカウンターに突っ伏しながら、正面の棚を落胆気味に眺めていた。
 目の前にあるガラス張りの向こうには石畳の大通りがよく見える。そのガラスの壁に沿うような形で置かれた木の棚にはたくさんのパンが残っている。六日前に作った新作のパンもそこにはあった。
 夕暮れ時の茜色の光が差し込む店の中、モモは売れ残ったパンの一つを食べながら考え込んでいた。
「うーん、リズさんのパン、こんなにおいしいのに。何がいけないんでしょうね」
 そこへ、からんころんと扉についたベルが鳴り響く。
 中に入ってきたのは幼い兄妹――ユミトとフィリアだった。二人は腕の中に紙の束を抱えている。
「どうしたの? ふたりとも」
 リゼットは尋ねた。
 ユミトは眉を吊り上げていた。納得がいかないような、怒っているな。
 対称的に隣のフィリアは眉を下げていた。浮かないような、落ち込んでいるような。
 ぼそりと不愛想につぶやいたのはユミトだった。
「別に……」
「モモお兄ちゃん、頼まれたものやってきたよ」
「ありがとう」
 そう言ってモモは二人から紙を受け取った。
「なぁに? それ」
「道行く人にアンケートをお願いしたんですよ。ズバリ、この店の問題点やパンについて思うことを調査してきてもらったんです。それによると――」
「ちょっと待った!」
 リゼットはモモに手を突き出した。
 深呼吸をし、心の準備をする。
「はい、いいわよ」
「じゃあ行きますよ。えっと、まず一番多かったのがパンも店も全体的に地味。次に普通。面白みがない。味は悪くないが平凡すぎる」
 どすどすっ、と目には見えない言葉の刃がリゼットの胸に突き刺さる。
 モモは感心したようにうなずいていた。
「なんというか、皆さん的確な表現ですね。言われてみると、リズさんのパンっておいしいですけど、華やかではないですよね」
「う……、そんなものすごく納得したように言わなくても」
 カウンターの中で膝を抱えながら、リゼットは激しく落ち込んだ。
 あたふたしたのはユミトとフィリアだった。
「そ、そんなに思いつめることないよ!」
「そうだよ、リズお姉ちゃん!」
「……ありがと。ユミト、フィリア」
 リゼットは目じりに浮かんだ涙をぬぐった。
「あ、あのね。リズお姉ちゃん。今日、向こうの通りで見かけたパン屋さんは、さくらんぼやオレンジが乗った、おいしそうなパンがたくさん置いてあったんだよ。だから……」
「そうだよ! こっちも負けてないでそういうのを作ったらいいんだよ!」
 それを聞いたモモは、ふと気づいたような声を上げる。
「そういえば、リズさんのパンって生野菜とか果物を使ったようなものは多くないですよね」
「……あえて作らないようにしているのよ」
「どうして?」
「生ものは日持ちがしにくい上に、気温が上がると腐りやすい。そうなると捨てる量が増えて、あげられなくなるでしょ」
 誰に、とは言わなかったが、ユミトとフィリアはきちんと理解したようだった。自然と二人が口を閉ざす。
「あと、ドライフルーツを練り込んだ生地を適当な大きさにして焼くならともかく、一つ一つ完成したパンの上に果物を乗せるとなると、手間も時間もかかっちゃう。あと、市場に行って果物を買ったり皮をむいたりする必要もあるし。一人じゃあ、とても手が回らないわ。作ってみたい気持ちはこれってほどあるんだけどね」
「一人じゃないじゃないですか」
「え?」
 リゼットは振り返った。そこにはわくわくと期待に胸を膨らませたフィリア、やる気十分なユミト、そしてにこにこと笑っているモモの姿がある。
「まさか、もしかして?」
 こくこく、と三人は子供のように首を縦に振った。
「……賃金とか労働報酬とか出せないわよ?」
「賃金がリズさんのパンなら、僕らにとって十分な報酬ですよ。ねえ?」
 モモが確認を取ると、二人は息ぴったりのタイミングでうなずいた。
 しばしの沈黙。
 はーっと諦めたようにリゼットは息を吐いた。
「手伝う前に、レティシャさんに帰りが遅くなることを伝えてくること。いいわね?」
「はーいっ」
「うんっ」
 そうして再びパンの開発が行われる。

 さっそく出来上がったパンの試食会を開くため、三人は二階にやって来ていた。
「……ふおぉぉぉぉぉ」
「すっごく、おいしそう」
「リズ姉ちゃんすごいね」
 かじりつくようにテーブルを囲んだ三人は目を輝かせると口々にそう言った。
 木のテーブルの上に置いてある陶器の皿の上には、見た目華やかなパンが乗せられている。
 花を模したよう切り分けた苺を並べた星形のデニッシュ。
 カゴに見立てたパンにブルーベリーと木苺をぎっしりと詰め込んだブリオッシュ。
 若草色をしたそら豆と紅色をしたサーモンのキッシュ。
 新鮮なトマトとベーコンとチーズを贅沢に乗せたオープンサンド。
「なんか、パンっていうより、きらきら輝いてて、お菓子みたいだね」
 フィリアの微笑ましい感想に耳を傾けつつ、リゼットは部屋の奥にある小さなキッチンでコーヒーを煎れていた。ポットを二つ重ねたような形をしたドリップポットの中に挽いたコーヒー豆を煎れ、沸かしたケトルのお湯を注いでいく。
 ふわりと香る、ほろ苦いコーヒーの香りが部屋中に広がった。
「三人とも眺めてないでコーヒーカップをそっちに持って行ってちょうだい」
「はーい」
 返事と共に台所にやって来た三人それぞれに、リゼットはホーローのコップを手渡した。
 モモの分はコーヒー。ユミトとフィリアのコップの中身は、鍋で沸かしたホットミルク。
 そうして始まった試食会は、ものの十五分足らずで終了した。
 皿の上はパンくずがところどころ散っているだけで、その他に何も残されていない。
 あっという間にパンを平らげた三人は実に満足そうな顔をしてお腹を押さえている。
「パンってやっぱり焼き立てが一番おいしいですよね」
 まだ湯気の残るコーヒーに息を吹きかけながら、モモがそんなことを言い出す。
「食べられる場所を店内に設けるとかどうですか?」
「前にも言ったけど、店内改装は時間もお金もないから難しいわね」
 そう言うもモモは落ち込んだ様子もなく、何かを思案したようだった。
「ですよね。というわけで、僕ちょっとやってみたいことが」
「というわけでって何よ。っていうか、やってみたいことって何よ」
 いたずらを閃いた子供のように、モモは人差指をそっと立てた。
「それは内緒ってことで。迷惑かけるつもりはないんで、心配しないでください。じゃあ、僕はやること思い出したのでちょっと出かけてきますね」
「出かけて来るって、もうだいぶ遅いわよ?」
「ちょっと確認してくるだけですから。すぐ戻ってきます」
「何するんだか知らないけど、夜道は危ないから気を付けてね。後、出かけるついでで悪いんだけど、ユミトとフィリアを家まで送って行ってもらえないかしら」
「いいですよ」
 一階でリゼットが三人を外に見送る直前、振り向いたモモが聞いてくる。
「あ、そうだリズさん。この町って、旅人でも使える印刷機ってあります?」
「先週、契約書にサインするために庁舎行ったでしょう? えっと、マルシェラ鐘楼があるリーフェン広場のとこ。あそこなら、お金を払えば使わせてくれるはずよ。といっても、この時間じゃもう閉まってると思うけど」
「ですよね」
 軽くうなだれるモモ。まるで捨てられた犬猫のようだ。
 リゼットは少しの間、黙考した。
「そうね……。どうしても今日中に使いたいんだったら、ノワ爺様のとこに行ってみたらどうかしら。もしかしたら、庁舎の鍵を持ってるかもしれないわ」
「ノワさんがですか?」
「ノワ爺様は二年前まで、町議会員だったの。要するに偉い人。まだ庁舎の手伝いをしてるから、鍵を持ってるかもしれないわ。……まあ、職権乱用になっちゃうけれど」
「わかりました」
 モモが苦笑しながらうなずく。
 と、幼子二人が口をそろえて聞いて来る。
「しょっけんらんよー?」
「しょっけんらんよー?」
「あなたたち、その言葉はレティシャさんの前で言っちゃだめよー?」
 リゼットはにっこり笑顔で言い聞かせた後、再びモモに向き直った。
「ノワ爺様の住んでるところは、この二人が知ってるから教えてもらってちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
 そう言って、三人はリゼットの家を後にした。
 翌々日のことである。
 リゼットは店で開店準備を行っていた。
 いつもならライラックの花が咲き誇る大通りが見えるガラス張りの壁にはロールカーテンが下されている。
 ロールカーテンの手前に置かれた木の棚の上には、苺のデニッシュとブルーベリーと木苺のブリオッシュを並んでいた。昔から新商品は大通りからよく見えるように、ガラス張りの壁沿いにある棚に並べるのが定番だ。
 店に入ってすぐ右にある背の高いスツールの上には、角切りチーズとバジルをたっぷり入れたパンがカゴに入っていた。こちらも昨日の店休日に作った新商品で、チーズの芳醇な香りがほんのりと漂っている。
 リゼットは、ぐるりと店内を見渡した。会計機が置かれたカウンターの下には、細長いバケットやライ麦だけで作った丸いパンなどが置かれている。
「これで一通り準備は終わったかしら……」
 そうつぶやいたところで、店の扉が開いた。
 入ってきたのは金髪に透き通る水色の瞳の少年――モモだった。
「あれ、もしかして準備もう終わっちゃいました?」
「ええ。ついさっき、ね」
 答えた後、リゼットは文句でも言うように口を尖らせた。
「あなたどこ行ってたのよ。てっきり今日並べる新商品のパンを作るのを手伝ってくれると思ったら、一昨日の夜から出て行ったきり帰ってこなくて……。ユミトとフィリアから用事があるからって話は聞いたけど……って、あら、どうしたの。その格好」
 モモはいつも上に着ているベストを脱いでいた。くすんだオリーブ色のマントも着ていない。
 代わりに、清潔な白のブラウスに黒い脚衣《パンツ》を着ていた。脚衣《パンツ》には、ベージュ色の長い腰エプロンが巻かれている。
「これですか? 夜なべしてエプロンを作ってみたんです。それ以外の服はノワさんの息子さんが着ているものをお借りしたんですけど」
「へえ、中々似合ってるじゃない」
「や、やだなぁ。そんなことないですよ」
 軽く手を振るモモの頬は、照れたように薄桃色に染まっていた。
「で、一昨日、何か思いついてから何かしてたみたいだけど?」
「はい、ちょっと外に来てください」
 案内されたリゼットが見たのは、いつの間にか店の前に置かれていた細長い木のテーブルだった。
 テーブルの傍には、椅子のつもりか、ワインの木箱が置かれている。
 リゼットはぽかんと口を開いた。
「これは……」
「ちょっとした休憩ついでに店の外でパンが食べられるようにしてみました。このぐらいだったら通りに置いてあっても、誰かに文句言われることもないと思うんですけど、どうですか?」
「……もしかして、今まで、これ作ってたの?」
「ええ」
 モモに疲労の色はない。なんてことはないような顔でうなずいている。
「こんな木材、一体どこから?」
「町の人で、納屋を解体した方がいらっしゃって。その人から廃材をもらってきたんです」
「ここまで運んでくるの大変だったでしょう。っていうか、よく用意出来たわね」
 他にも、いつ運んできたのかとか、全部一人でやったのかとか、大工の技術を持っていたのかとか、色々聞きたいことはあったのだが、聞くだけ野暮な気がした。
 リゼットはそっと椅子の表面をなぞった。
 木のテーブルは、職人が作ったものと比べると足元に及ばないものの、それでも一つ一つ丁寧にヤスリがかけられていて、ささくれのようなものは見当たらない。
「本当はちゃんと色塗りとかしたかったんですけどね。さすがに時間が足りませんでした」
「どうして……」
「ここからの眺めがいいことを教えてくれたのはリズさんじゃないですか。なら、これを使わない手はないなって。パンを買った人がここで休みながらライラックの花を眺められるようにしてみました」
 そういうことを尋ねたかったわけではないのだが、モモはそう答えてきた。
「それじゃあ、あなたここ数日ほとんど寝てないんじゃ――」
「まあまあ、そんなこといいじゃないですか。ちなみに、仕掛けはこれだけじゃないですよ」
「まだ何かあるの?」
「それは、始めてからのお楽しみ、ということで」
 モモは悪戯っぽく笑って、人差し指を口元に当てた。
「さ、開店の時間ですよ。店長」

 開店から一時間ほどした後、やって来たのはふくよかな茶髪の女性だった。本日一人目の来客である。
 女性は新しい商品に目を輝かせると、新作のパンをトレイに乗せてカウンターにやって来た。
「お買い上げいただき、ありがとうございます」
「今日から新しいパンの販売を始めたのね」
「ええ。さっそく気に入っていただけたようで良かったです」
 そう言いながらリゼットがパンを紙袋に入れていると、モモが女性に話しかける。
「店の外に休憩場所がありますので、そちらもよろしかったらご利用くださいませ」
「あら、テーブルがあると思ったらそういうことだったのね。じゃあ、ライラックの花もきれいだし、ちょっと休んでいこうかしら」
「でしたら」
 モモはそう言って調理場に戻ると、ほんの少しの間を置いて、香り立つコーヒーの入ったコップを手に店に戻ってきた。
 すっと女性の目線に腰を少しだけ折り曲げたモモは、コーヒーを女性の前に差し出す。
「よろしかったら出来立てのコーヒーをどうぞ。外でお召し上がりになるお客様に無料で配っているんです」
「あら、うれしい」
 そう言って女性は嬉しそうにコーヒーを受け取った後、店の外に出て行った。椅子に座るなり、のんびりとコーヒーを飲みながら、さっそくパンを食べ始める。
 そんな女性を眺めていたリゼットが彼に問いかけた。
「……もしかして、もう一つの仕掛けって、これ?」
「はい。コーヒーを無料で配ってみようかなって」
 ドリップ・ポットを手にして立つモモの姿はバリスタのように様になっている。
「それなら無料じゃなくて、一杯十リディアでもいいから、いくらか取ればいいと思うんだけど。あるいはパンの値段に上乗せするとか」
「そのつもりはありませんよ。このコーヒーはあくまで無料ということに意味があるんです」
「どういうこと?」
「集客率を上げるのが最大の目的ということです。要するに、お客さんに居心地のいい場所を提供するためのものですね。そうすることで、また来てもらえる可能性もある」
 リゼットは素直に感心していた。
「はあ~。なんかあなたすごいわね」
「後、昨日、新作のパンを販売しますっていう広告を刷って街の壁に貼り付けてきました」
「え?」
「新作のパンを販売しますっていう内容と、外の席で食べられる方にはコーヒーを一杯無料でおつけしますって書いたものを二十枚ぐらい、ぱぱって」
「ちょっと待っていつの間に!?」
「絵はフィリアちゃんたちにお願いしまして。多分、今日はいつもより人が来ると思いますよ」
「もしかしてあの時、印刷機使えないかって聞いてきたのってこういうこと?」
「はい。あと、採算が合うかどうかわからないんで、一応、コーヒーの無料配布は今日と明日の二日間限定にしてあります。新作発売記念ってことで」
「って、コーヒー代なんて私渡した覚えないわよ?」
「お金はユミトくんたちのお金じゃなくて、僕が出したから大丈夫ですよ?」
「そういう問題じゃなくて! ああもう、それじゃあ、私たち二人じゃ人手が足りなくなるわよ」
「はい、ですから――あ、来た来た」
「え?」
「リズねーちゃん。手伝いに来たよーっ」
 そう言って現れたのは、朝手伝いに来た後、一度家に帰らせたはずのユミトとフィリアだった。

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