〜 モモと不思議な魔法の小瓶 〜

 リゼットの手の平に小瓶を置いたモモは、小瓶ごとその手を両手でそっと包み込む。
「豊穣《ほうじょう》と慶幸《けいこう》の審判者よ。我、汝の選定者と契約を結び、大いなる希望に従い、その心に喜びをもたらさん――」
 小瓶を包んだモモの指の隙間から銀色の淡い光が漏れだした。
「〈創造の大樹〉が根ざす〈オルフィレウスの泉〉のごとく、生命の歓喜により大いなる天の水を湧き上がらせよ」
 言い終える頃には、光は空気に溶けるように消えていった。モモも手を離す。
 リゼットの手の平に残された小瓶は、特に変わった様子はない。リゼットの身体にも変化は何もなかった。
「はい、おしまいです」
「……これだけ?」
 拍子抜けした気分で聞き返す。
 モモは安心させるように微笑んでいる。
「ええ。別に体に害とかないので安心してください」
「ふぅん」
「誰彼かまわず僕と関わった人が何かをきっかけに喜んだとしても、水は溜まりません。こうやって、正式な契約を結ばないと駄目みたいなんです」
「みたいって、曖昧ね」
 正直な感想を告げる。
「僕もこの小瓶について詳しく知ってるわけじゃないんです。これ、元々僕のものではないですし」
「預かり物ってこと? それなら持ち主は誰なのよ」
 聞いてみるも、モモは微笑みで誤魔化してしまうだけだった。
 そういえば、旅人と言っていた彼は一体どこから来たのだろう。どこへ行くつもりだったのだろう。
 リゼットは好奇心で質問してみたくなるも、今は置いておくことにした。何となく、答えてくれないだろうな、という気がしたともいう。
「でも、私が喜んだり幸せになったりするって、その辺ってどうやって判断されるのかしら」
「さあ。今までも気付いたら水が増えてたって感じですね。何らかの審判は下されているとは思うんですが……。そんなことよりも、どうします?」
「どうしますって、それはこっちの台詞よ。手伝ってくれるからには、何か良いアイディアがあるとばかり」
「僕は経営に関しては専門外ですよ。むしろ、そういうのはリゼットさんの方が得意と思ったんですけど。実際、商売してるわけですし」
「そんな良い案があればとっくの昔に試してるわよ……」
 落胆したように肩を下げる。無計画なくせして、強引にぐいぐい押してきたのか、この少年は。
 すると、モモは提案してきた。
「内装して、店の雰囲気を変えるっていうのは、一番手っ取り早そうですけど、どうですか?」
「そんなお金も時間もないわよ。それに、そんなの単なる付け焼刃だわ」
「……意外とリズさんって後ろ向きですね。もうちょっと積極的と思ってました」
「現実的と言ってちょうだい」
 言ってから二人は黙り込んだ。
 ややあってモモが口を開く。
「……とりあえず、かけておくべきものは保険と危険手当ですかね?」

 真昼を知らせる鐘の音が鳴り響いている。
 槍のような尖塔の先にある吊るされた鐘を鐘付き人が鳴らしていた。
 リゼットとモモは運河の間にかけられた橋を渡っていた。
 橋の下にある、町に縦横に縫うように張り巡らされた運河には、舟に乗った船漕ぎ人がオールをこいで荷物を運んでいる。
 橋を渡りきると、階段状の形をしたかわいらしい屋根で飾られた家並みが見えた。
 オレンジ色にとがった切妻屋根やレンガ造りの白壁の家が続くそこは、大通りであり、ライラックの並木道にもなっている。
「いきなり『保険と危険手当ですかね?』とか言いだすと思ったら、こういうことね」
 リゼットは歩きながら一枚の紙を眺めている。細かい文字がびっしり書かれた紙の右下には町長の名前とリゼットの名前が書かれていた。
 先ほど役場で町長と交わした土地の売買の契約書を見つめながら、ぼんやりとリゼットはつぶやいた。
「私、本当にあそこの土地を売るって契約しちゃったんだ……」
 まだ実際に土地を手放したわけではないのだが、既に自分の手から離れたような感覚だ。
 リゼットの後ろを歩いていたモモが横にやってくる。
「まだ売ってませんよ。あくまで税金を払えなかった時、売却するんです」
「でも、なんで先にこんな契約をさせたの?」
「税金が払えなかった時の保険です。もちろん町の側はあの土地を高く買い取ってくれるつもりですけど、こういうのは土壇場でひっくり返る可能性がありますから」
「……あなたさりげなくしたたかね」
「なんだか僕の性格が悪いみたいな言い方ですね……」
 モモは落ち込んだように肩を落としてから、顔を上げた。
「まぁ、後の事を考えると、リゼットさんも万が一のことが起きた場合、元手があった方が動きやすいでしょうし。ユミトくんとフィリアちゃんのために何かしてあげたいと思うなら、なおさら」
「……既に、その失敗を前提としてるような発言が失敗を予感させるんだけど」
「そ、そりゃあ僕だってうまくいけばいいなって思ってますけど……危ないことしたくないじゃないですか」
 リゼットの反応をうかがいながら、びくびくとしている姿は気弱な年下の男の子にしか見えない。見た目の年齢はリゼットと同じか、少し年上かもしれないくせして。
 金色の髪に澄んだ水色の瞳の少年を、じっとなんとなく見つめてからリゼットは別のことを口にした。
「……とにかく店に戻りましょうか。ユミトとフィリアも来ているかもしれないし」
「何かするんですか?」
「さっき、言ったでしょ。新作のパンを作ろうと思うのよ。それを明日から売ってお客様の心をわしづかみよ!」
 そうリゼットが言ってライラックの並木道は終わりを迎えた。左右に伸びる別の道とぶつかる。ちょうど並木道の突き当りに位置する一軒の古ぼけたレンガ造りの建物。
 そこが、リゼットが暮らす家だった。
 そうして四人が調理場で新商品の開発を行っている途中のことである。
「あ、しまったわ」
「どうしたんですか?」
 調理場の中央にある大きな台の上には、ガラスのボウルが置かれている。
 その中に手を突っ込んで中身をかき混ぜようとしたところで、リゼットは申し訳なさそうな顔でユミトとフィリアの顔を見た。
「ライ麦粉を入れようって思ってたんだわ。ごめん、ユミト、フィリア」
 リゼットは粉だらけで真白くなった手で後ろを指さした。
「裏にある粉置場からライ麦の粉を持って来てくれる? 鍵は二階の私の部屋に入って、すぐわきの壁にぶら下げてあるから」
「はーいっ」
「はーいっ」
 二人が声をそろえて元気に返事をした後、調理場から出て行った。
 ぱたぱたと仲良く走る二人の姿に、リゼットは胸をなでおろす。
「とりあえず、あの子たちに笑顔が戻って良かったわ」
 そうこぼすと、モモは優しく笑っていた。
「リゼットさんはあの二人が大好きなんですね」
 穏やかな響きはこちらをからかって遊ぼうというものではない。
 だからこそ、リゼットも素直に万感の思いを込めて肯定することができた。
「ええ。……それだけじゃなくて、二人は私の恩人だからっているのもあるけど」
「恩人?」
「二年前に両親が亡くなったって言ったでしょう? 実はその時、パン屋を辞めちゃおうかなって思ってた時期があったのよ」
「どうしてですか?」
 リゼットは水場で手を洗いながらさらりと答えた。
「続けられる自信がなかったから。後、お父さんもお母さんもいなくなっちゃって、これからもパン屋を続ける意味ってあるのかなって思ったりしたの。今までずっとそばにいてくれた人がいなくなっちゃって、どうしたらいいかわかんなくなっちゃってたんだと思う。一人になって、これから一人で生きていかなきゃならなくなって、途方に暮れてたの」
 そんな昔話を語りながら、脳裏に思い浮かぶのは幼子二人の必死な姿だった。
「そんな時、あの子たちがね、私のパンが大好きだって、大好きでこれからも食べたいからパンを作って欲しいって必死にお願いに来たのよ」
「へえ、そんなことがあったんですか」
「もちろん、最初は私も無理だって言ったわ。私が店の手伝いをしてたとはいえ、元々あった商品の半分ぐらいのパンしか私は作れなかったしね。でも、あの子たちは毎日来ては一生懸命私を励まして、新しいパンを作るのを手伝ってくれた。店の掃除とかも手伝ってくれてね。で、お父さんの時から売っていたパンをベースに私なりにアレンジしたものを増やして、時間を掛けて、ようやく店として成り立つようになったっていうわけ」
 それを聞いたモモがゆっくりと染み入るような言葉を返してくる。
「……いい子たちですね」
「ええ。大切な恩人で……大好きな友達なの。だから、あの子たちには笑ってて欲しい。それに、あの子たちが笑うと私も嬉しいしね」
 そう屈託なく笑う。
 モモは幸せそうな顔で、えへへ、と笑っていた。
「……そのへらっとした顔、なんだか微妙に腹立つわね」
 じと目を向ける。恥ずかしい昔話をぺらぺらとしゃべったのはリゼットだが、そのふにゃふにゃと軟弱そうな笑顔は見ていて少し反発心が沸いてくる。
 モモは心外だと言うようにうろたえた。
「ええっ? 僕は純粋に大切な人に笑っていて欲しいとか思う気持ちって素敵だなって思ってただけなんですけど」
 正直な気持ちなのだろうが、聞いているリゼットとしては茶化されているように聞こえてしまう。
「混ぜっ返さないでよ。あと恥ずかしい」
「いいなぁ、そういうの。リゼットさんみたいに、大切な人がいるってうらやましいです」
 どこか遠い出来事をうらやましがるような眼差しに、リゼットは聞き返していた。
「あなただって、大切な人とか、友達の一人や二人、いるでしょう?」
 なんてことはない普通の質問のつもりだったのだが、何か琴線に触れるものがあったらしい。不思議な間があった。
 やがて、モモが苦笑しながらゆるりと首を横に振った。
「……いないですよ。だって、僕は根っからの旅人ですから。あちこちで知り合いはできますけど、友達はできないですよ。根なし草ってやつです。それに、大切な人ができたとしても……僕は……」
 徐々に小さくなる語尾。その先を追求しても良かったのだが、モモは思いつめたようにうつむいたまま顔を上げようとしない。
 どこか寂しげなモモに、リゼットは当たり前のように洗い終わって拭いたばかりの手を差し出していた。
「じゃあ、私と友達になりましょ」
「え?」
「ここまで手伝っておいて、あなたまさか私のこと、ただの知り合いとか恩人だとか思ってるわけ?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「ならいいじゃない」
 あっけらかんと笑う。
 だが、モモは戸惑っているような、困ったような顔のままだった。引け目でも感じているような様子である。
「でも、友達とかって、なるもんじゃなくて、自然となってるようなもので。その……出会って間もない僕なんかがなれるものじゃないんじゃ……」
「そりゃあ、そういう場合もあるでしょうけど、別に友達になるのに決まったやり方なんてないんじゃない? それに、何より、私があなたと友達となりたいと思っちゃったんだもの。ね?」
 そう言ってリゼットは笑った。
 モモは生まれて初めて見るもののようにリゼットの顔を見てから、ゆっくりとうつむいた。それから、表情を隠すように両手で頭を抱え、何かを堪えるように小さく震えた後、
「……うん」
 ぽつりと、大事なものを噛みしめるような、どこか照れくさそうな声でうなずいた。
「ほーら、手を出した出した」
 リゼットは半ば強引にモモの手を引っ張ると、彼の手の平と自分の手の平と重ねあわせた。
「改めてよろしく! モモ!」
「はい! リゼットさん!」
 モモが顔を輝かせて笑う。
 しかし、場違いにもリゼットは、うーんと悩んでしまった。
「……いつまでも、リゼットさん呼びもよそよしいわね。リズでいいわよ?」
 そう言うと、モモは遠慮したようだった。恥ずかしがるように首を横に振る。
「え……、でも女性をそんな軽々しく略称で呼ぶなんてできませんよ」
「友達なんだからいいじゃない」
 あっけらかんと笑い、期待の眼差しでモモを見つめる。
 モモはなぜだか妙にそわそわした様子でリゼットから視線を逸らし、迷い、意を決したように口を開き、閉じ、何度か似たようなことを繰り返した後。
「……じゃあ、リズ……さん」
 そう、小さな声でリゼットの名を呼んだ。彼の方が身長が高いはずなのに、なぜか上目づかいである。
 リゼットは満足そうにうなずいた。
「うん、よしっ」
 そこへタイミングよく戻ってきたのはユミトとフィリアだった。
 二人は手を握り合うリゼットとモモの姿に小首を傾げている。
「どうしたの、ふたりとも」
「なんかいいことあった?」
「ふふ、何でもないわよ。モモと友達になったっていうだけ」
「え、モモのお兄ちゃん、リズねーちゃんとまだ友だちじゃなかったの?」
「おそーいっ」
 驚いたように口々に声を上げるユミトとフィリア。
 困惑気味に抗弁したのはモモだった。
「お、遅いって。むしろ早い方じゃあ……」
「ほーら、二人にまで言われてるじゃない」
「ええ……?」
「まっ、細かいことは置いといて。それじゃあ、二人が戻ってきたところで新作のパンの仕上げに取り掛かりますか。んで、明日からバンバン売るわよーっ!」
 言いながら気合いを入れ直すように上に拳を突き出したリゼット。
 それにならって、他の三人も似たような格好で「おーっ」と掛け声を上げるのだった。

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