〜 モモと不思議な魔法の小瓶 〜

 翌朝。
 柔らかい粉のように白っぽい朝の日差しが入り込んだ一階の調理場。
 そこにやって来たリゼットは四角い流し台の前に立っていた。その手にはモモが大切にしている小瓶が握られている。
 調理場は静寂に包まれていた。レンガで覆われたパンを焼くための大きな石釜に火は入っていない。中央に置かれた調理台の上にも何も乗っていなかった。
 リゼットは流し台をちらりと見た。
 流し台の中には、水が張られた金たらいが置いてある。
 気にしたようにリゼットは周囲を確認する。今のところ、モモがやって来る気配はない。
 胸のあたりに罪悪感でつきりとした痛みが走る。だが、リゼットは首を振って迷いのようなそれを追い払った。やや緊張した面持ちで小瓶のふたを回す。
 が、接着剤で固められているのかのように、小瓶はびくともしない。
 何度か試した後、リゼットは諦めた。文句でも言うようにふてくされる。
「もう、何なのよ。この小瓶、ちっとも開かないじゃない」
「あ、それ、普通の方法じゃ開きませんよ」
「きゃーっ!?」
 いきなり音もなく背後からぬっと現れたモモ。
 驚いたリゼットは悲鳴を上げながら小瓶を宙に放り投げた。薄いガラスで出来た小瓶がガチャンと派手な音を立てて石の床に落ちる。
 響いた音の大きさに、リゼットはぞっと血の気を引かせた。恐ろしさのあまり、とっさに口を突いて出たのは謝罪。
「あ……、ご、ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃ――」
「大丈夫ですよ」
 あっさりと言ってモモは落ちた小瓶を拾い上げた。
「ほら、この通り」
 リゼットの方に差し出された小瓶にはひび一つ、傷一つも入っていない。全くの無傷だった。
「これ、どんなことしても割れないんですよ。不思議ですよねー」
「ど、どうして……」
 モモは、のほほんと笑った後、桶にはられている水を見てきょとんと声を上げた。
「あ、もしかして蓋を開けて水をいれようとしたんですか?」
 ぎくり、とリゼットは肩を跳ね上がらせた。同時、思わず白状していた。
「ち、違っ……わない、けど……。ちょっと、試してみたかったのよ!」
「無理ですよ」
 さらりとモモは真顔で言った。
「例え蓋を開けられたとしても、普通の方法じゃこの小瓶に水を入れることはできません」
 モモはリゼットの行動を責めるつもりはまるでないらしい。気にした風もなく説明してくる。
 その様子にリゼットの方にも徐々に落ち着きが戻ってくる。
「……普通の方法って、それじゃあ、どうしたらいいのよ」
「その質問に答える前に、僕からも聞いていいですか?」
「いいわよ」
「リゼットさんは、この小瓶の水を一杯にして、どんな願い事を叶えたかったんですか?」
 なぜか真面目な顔で聞いてくるモモに、リゼットは誤魔化すようにそっぽを向いた。
「……別に、なんだっていいじゃない。それより、どうやったら小瓶に水がたまるのよ」
「リゼットさんが僕の質問に答えてくれたら、僕も答えます」
 かちん、とリゼットの額に怒りの四つ角が浮かぶ。
 モモの澄んだ水色の瞳は真剣そのものだが、台詞は挑発されているとしか思えない。こいつ実は性格悪いんじゃないのか。
「それは……」
 リゼットが言いかけたところで、玄関の方から頑丈な木の扉をこんこんとノックする音が聞こえた。
「ごめん、ちょっと行ってくるわね」
 そう言ってリゼットは調理場と隣接しているパン売り場に向かった。
 パン売り場は調理場と同様に静まり返っていた。
 普段なら大通りに面したガラス張り沿いに置かれている棚に焼きたてのパンが並んでいるのだが、今日は休日のため何も置かれていない。
 扉の外から聞こえてきたのは幼い兄妹の声だった。
「リズねーちゃーん」
「リズお姉ちゃん」
「あ。ユミト、フィリア。おはよう」
 扉を開くと、そこにはリゼットの腰当たりまでの背丈しかない、十歳ぐらいの子供二人が立っている。
「おはようリズねーちゃん」
「今日はパン残ってる?」
 濃茶の髪を二つに結び、緑色のスカート姿の女の子――フィリアがあいさつしてくる。
 それに続くような形で、聞いてきたのはフィリアの兄であるユミトだ。こちらは濃茶の短髪に短めの脚衣《パンツ》を履いている。
「ちょっと待ってね」
 そう言い残して、リゼットは調理場へと戻った。いまだに流し台の前に立っているモモの脇を通り過ぎると釜戸の隣に置いてあった紙袋を拾い上げ、急いで入口に戻ろうとする。
「ねーちゃーんっ!」
 そこへ、焦燥めいたユミトの声。
 リゼットが店の売り場に戻るよりも早く、ばたばたと足音を鳴らしながら二人が調理場にやって来た。二人はリゼットの腰にしがみつく。
「ちょっと、どうしたのよ、二人とも。待っててって言ったじゃない」
 そう言いながらリゼットは二人を腰に引っ付けたまま店の売り場に戻る。
 その時だった。
「おいおい、今日は人がいねぇじゃねぇか。ついに店じまいかぁ?」
 開きっぱなしの扉から、頑丈な武具を連想させる屈強な大男と、ごぼうのようにひょろひょろしたやせっぽちの男が店に入ってくる。
 リゼットは男たちを見るなり不機嫌そうに眉を吊り上げた。しかし、優雅に笑って見せる。
「あら、おはよう。今日は見ての通りお休みよ。パンを買いたいなら明日出直してきてくれるかしら」
 大男の方が、にたにたと笑いながらリゼットに詰め寄る。
「おうおうリゼットさんよぉ。店休なんて、そんなのんきにしてていいのかよう。そんなことしてっと、あっという間に期日がやってきちまうぜ」
 ごぼう男――もとい、貧弱そうなやせっぽちの男が不健康そうな顔で説得してくる。
「考えてみろや、リゼットさん。別に町長はあんたを野垂れ死にさせようっていうわけじゃねぇんだぜ。正規の値段を大きく上回る価格で、この土地を買い取ろうって言うんだ。いい話だと思わねぇか?」
「例えそうだとしても、町長に雇われただけのあんたたちには関係ないでしょう」
 きっぱりと突っぱね、リゼットは一歩前に足を踏み出した。
「わかったら、店からとっとと出て行ってちょうだい。ついでに、町長に町の品位が下がるから、こういう借金の取り立てみたいな真似はやめてちょうだいって伝えておいて」
 それを聞いた大男がいらついたように眉を吊り上げた。
「あんたもさ、いい加減わかったらどうだ? こーんな陰気な店、潰しちまった方がよほど町のためってことを」
「勝手なことを言うな!」
 そう叫んだのは、リゼットの後ろにいた子供――ユミトだった。
「なんだぁ? このチビ。……お、よく見たら、なんかいいモン持ってんじゃねぇか」
 ユミトが手にしている紙袋を大男が取り上げる。
「なんだ。ただのパンじゃねぇか」
 大男は紙袋の中をもう一人の男と一緒にのぞき込んだ。
「何すんだよ! 返せ!」
「言われなくとも、こんなもん、すぐに返してやるよ。ほーらよっと」
 そう言って男はパッと手を離すと紙袋をひっくり返した。続いて、床に落ちたパンを踏みつける。念入りに靴ですり潰すようにぐりぐりとパンを床に押し付け、最後に唾を吐き捨てる。
「おや、随分とひでえ商品を人にあげる奴もいたもんだ。こーんなモンを食うぐらいなら犬の飯でも食ってた方がよっぽどマシってもんよ」
「違いねぇっ!」
 げらげらと笑いだす細長い男。
 すると、両手を握りしめたまま、ぶるぶると震えていたユミトが大男へと飛びついた。
「姉ちゃんのパンを馬鹿にするな!」
「なんだてめぇ」
「リズ姉ちゃんのパンはおいしいんだ! だから馬鹿にすんな!」
「――いってぇっ!」
 悲鳴が上がる。
 ユミトは男の巨木のように太くたくましい足にがぶりと噛みついていた。
 リゼットは焦燥に駆られて叫んでいた。
「やめなさいユミト!」
「何しやがる、てめえ!」
 男は足を大きく振り、足に食いついていたユミトを引きはがす。
 床に転がるようにして倒れるユミトを見たリゼットが悲鳴じみた声を上げる。
「ユミト!」
「うっとうしぃんだよ!」
 男はそう叫びながら腰に下げていた鞘付きの剣を大きく持ち上げると、ユミト目がけて振り下ろした。
 それを見たリゼットはとっさに動いていた。ユミトを守るように抱きしめるとギュッと体に力を込めて身を硬くする。
 次の瞬間、息のつまるような衝撃と共に肩のあたりを激しい痛みが襲う。
「ガキが!」
 叫んだ男がもう一度鞘付きの剣を振り上げた瞬間。
「こら! なにしとるんじゃ!」
 軍隊を叱りつけるような鋭く激しい一括が店の中を震わせる。
 いつの間にか扉の外に立っていたのは白髪の混じった初老の男だった。
「ノワ爺様!」
「ノワじいちゃん!」
「ノワおじいちゃん!」
 鞘付きの剣を振り上げた男は、現れた老人を上からぎろりと見下ろし、威嚇する。
「ああ? んだ、てめぇは」
 対して、うろたえたのは細長い男だった。
「お、おい。そろそろいいだろ。行こうぜ」
 彼は焦った風にノワをにらんだ男の脇腹を肘でつつくと、男の腕を引っ張って店から出て行こうとする。
「……ふん、まったく」
 出て行った男たち二人と入れ替わるような形で、老人が店の中に入ってくる。
 ユミトは心配そうな顔でリゼットを見つめる。
「姉ちゃん。姉ちゃん大丈夫? ごめんなさい、ぼくのせいで……」
「平気平気。私は大丈夫だから。ほら、そんな顔しないの」
 そう言ってリゼットは今にも泣きそうなユミトの頭をなでてやる。
 ユミトの台詞を引き継ぐように声を上げたのはフィリアだった。
「でも……。それに、パンが……」
 しゅん、と肩を落としたフィリアが、ぐちゃぐちゃになったパンの破片を拾おうと手を伸ばしている。
 湿っぽい空気を振り払うように、リゼットは笑顔を作った。
「もう、二人とも何どんよりした顔してるのよ。元気出しなさいって。あ、そうだ。実は今日ね、後で新作のパンを作ろうと思ってたの。あなたたちには新作パンを一番に食べさせてあげるわ。だから、午後になったらもう一度来てちょうだい」
 リゼットは立ち上がると、安心させるように二人の肩を抱き寄せる。
「ほら、だから今は一度お家に帰りなさい。帰りが遅いとレティシャさんも心配するわよ」
「うん……」
 表情が晴れない顔の二人の背中をそっと押して、店の外に送り出す。
「悪いんだけど、あなたたちの方からレティシャさんに謝っておいてちょうだい。じゃ、また後でね」
 そう言ってリゼットは笑顔のままユミトとフィリアに手を振った。
 ひとまず子供たちが出て行ったところで安堵にも似たため息を落とす。
 同時、殴られた肩が熱をぶり返したようにずきずきと痛んだ。痛みにリゼットの表情が歪む。手加減はしてくれているだろうが、痛いものは痛い。
 リゼットは申し訳なさそうな苦笑を作ると、店に残っているノワへと向き直った。
「ノワ爺様も、ごめんなさいね」
「リズや、肩は大丈夫かね?」
「大丈夫よ。それより、ノワ爺様の方こそ、今日は店はお休みなのにどうしたの?」
「花の水やりをしてたら、妙に図体のでかい男がお前の店の方に行くのが見えてのう。これはまた町長の奴の仕業かと思って気になったんじゃよ」
「ごめんなさいね。気にさせちゃって。あ、そうだ。昨日の男の子、夕方、目を覚ましたのよ」
 言いながらリゼットは調理場の方を見やる。
 そこには、先ほどの出来事の一部始終を見ていたらしいモモが、驚愕とも恐怖とも取れるような様子で水色の瞳を見開いていた。その顔は、ひどく恐ろしいものを見たように青ざめている。
 リゼットは首をかしげた。
「どうしたの?」
「……いえ、なんでもありません」
 そう言いながらモモはぎゅっと拳を握りしめていた。心なしか体が震えているような気がする。
 もしかして、今の騒動を見て恐怖に震えあがってしまったのだろうか。貧弱とは言わないが、モモは肝っ玉が強いように見えない。個人的には、男の子ならもう少し精神的にたくましくあって欲しいものだが。
 なにはともあれ、恥ずかしい場面を見られてしまったのには違いない。
「驚かせてしまってごめんなさいね。モモ、こちらノワ爺様。昨日、あなたを町まで運ぶのを手伝ってくれたの」
「はじめまして。昨日は、ありがとうございました」
「いいってことよ。元気になったようで何よりじゃ」
「ノワ爺様。良かったら、お茶でも一杯飲んでいってちょうだい」
「では、お言葉に甘えるとしようかね」
 ノワがそう言った後、三人は二階へと上がっていった。

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